電子は雲ではない

初出:幻冬舎ルネッサンスアカデミー「常識を問い直しましょう」第2回

2019年5月20日から国際単位系(SI, Système International d'unités)が原子単位に変わりました。とは言っても、急に変わった訳ではありません。1879年にフランスで決められた国際メートル原器が100年も経つと1億分の1位伸び縮みしたのが判明したり、kg原器が1千万分の1ずれたりしたこと等が起こり、「人間の作った基準」では、現在の技術が必要とする精度への対応に不十分なことが分かりました。原子を基準とすればこういう問題は起きないのです。こうして、より良い単位系を探した結果、7つの定数(セシウムの超微細遷移の振動数、真空における光速度、プランク定数、アボガドロ数、ボルツマン定数、電気素量、発光効率)を基本とした国際標準を決定することになったのです。すなわち今年から、長年親しんだ人間の尺度に合うMKSA単位系は廃止となり、原子が基本単位になりました。こうなると、量子力学は難しい、と匙を投げている訳には行きません。
私にはとても懐かしいミクロの決死圏という映画は1996年の作品ですが、物質のミクロ化に成功した科学者が脳出血を起こし、彼を助けようと医師団がその体内に小さくなって入って行って救命するというストーリーでした。今では現実となったレーザー縫合術等も登場して当時良くこんなことまで考えたものだと思います。しかし、ミクロとは行っても量子力学が対象とするサイズに比べれば遙かに大きく、「拡大すればよく見える」範囲です(映画としてちゃんと映っています!)。我々が見ている「もの」と量子力学の取り扱う対象物の違いは、量子系はいくら精度を上げても、「ちゃんとは見えない」ことなのです。電子を精度良く見ようとして光を当てても、位置と運動量は同時には確定出来ません。ピンぼけ写真しか撮れないのです。これを不確定性原理と呼んでいます。図1に、不確定性原理の概念を古典的な対象と比較して示します。

古典と量子のサイズ

図1.古典と量子の世界は数十桁も違う。

電子は素粒子物理学では、軽い粒子(レプトン)の一種に分類されます。量子力学のシュレディンガー方程式中でも、その位置と質量が現れます。しかし、マクロな「もの」と違い、その位置と運動量は同時に観測出来ないのです。この「その辺にある」範囲を電子雲と呼びます。電子が雲な訳ではなく、およそその辺にはあるという観測しか出来ないので、その範囲を雲と呼ぶのです。この「雲」は仮想的なものではなく、操作トンネル顕微鏡(STM, Scanning Tunneling Microscope)を使えば、物質表面で直接観測出来ます。電子密度分布を直接観測できるということは、従来のX線回折の様に原子構造をその繰り返しパターンから決める訳ではなく、本当に1原子を観ているのです。これは20世紀後半になってやっと実現したことなのです。従来は目には見えないが原子や分子はあるはずで、それがアボガドロ数集まって目に見えるサイズの物質を構成しているのだと理解していたのです。物質にX線を当て、その散乱パターンから逆算して原子構造を決めるため、1分子を見ることは不可能でした。
図2に、我々の研究成果の一つの電子雲の観察と理論解析例としてSi(111)-7x7表面上に吸着した1分子のC60F18に対するSTMイメージと理論計算結果を比較して示します。

シリコン表面のナノ粒子

図2.上図がSTMイメージで、中心の明るい部分がC60でその周りを良く数えると18個の小さい球状に見えるフッ素原子が取り囲んでいます。シリコン表面とは明らかに違うパターンです。下図が理論計算結果の電子雲で左側のパターンが実験結果と対応しています。実験では横からは見えないのですが、右図の様に吸着していることが理論的に判明しました。


最近は1電子を扱い、電流を基盤とする従来の情報処理を桁違いに高速化・高容量化するスピントロニクスが喧伝されます。電子のスピンと言うのですが、位置と運動量さえ同時に特定出来ない電子の回転が見える訳ではありません。磁場の中を電子が移動すると2つの方向に分かれるという実験事実を説明するためにスピンの概念が生み出されました。目に見えない電子をたとえ話で理解しようとするのには限度があります。
原子に関係するもう一つの話題として、今年は元素の周期律表が発表されてから150年の節目に当たります。メンデレーエフの名前は科学者は当然全員知っていますが、一般的にそんなに知られている訳ではありません。ところが、ロシアでは誰でも知っているのです。その理由は、もちろん周期律表ではなく、彼がウオッカのアルコール度の40%を決めた人だからです。それより濃くても薄くても胃まで直行しません。150年前にメンデレーエフは多くの人を対象にして胃まで直接届く(感じる)アルコール度を決定したのです。ロシアでは体を温める必要からこの40%が大事なのです。日本やヨーロッパの温暖な気候ではそんなに高いアルコールではなく15%位のが好まれます。所変われば品変わるの良い例です。
閑話休題。実は、古典力学も量子力学と同様に難しいのです。今の学校教育では、重力下でのボールの運動等のレベルだけを教え、複雑なコマの歳差運動や相対性理論はほぼ教えずに、途中を飛ばして量子力学を始めます。特殊相対論を習っていれば、観測の問題が重要なことをはっきり理解出来ます。古典的なコマの運動を確実に理解していれば、電子のスピンも良く分かるのです。そのためには球座標とラグランジアンを勉強しなければなりません。また、ハミルトニアンは、位置の時間での2次微分の一つの式であるニュートン方程式を、位置と運動量を別々に扱い、2つの1次微分方程式に書き換えたものです。この定式化は解析力学と呼ばれますが、位置と運動量を別々に扱えることから不確定性原理の表現が可能です。単にシュレディンガー方程式を解いていても量子式学の本質は何も分かりません。それがハイゼンベルグの行列力学と等価であることも確実に理解しなければなりません。それどころか、最近では欧米で開発されたソフトウェアを使ってシミュレーション計算をし、「理論」の論文を書く人ばかりになってしまいました。さらに、第一原理計算と言いながら、実験結果に合う様にパラメータを導入した現象論が横行しています。理論とはそういうものではありません。嘆かわしいことです。もっと基礎教育を充実させなければ、新しい原子・分子の時代に正しく対応し、さらに先の理論を生み出せる人材は育ちません。

参考文献

“Adsorption and electronic structure of single C60F18 molecule on Si(111)-7x7 surface”, R. Z. Bakhtizin他、Chemical Physics Lett. Vol.482 (2009) pp. 307-311.


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