見出し画像

「花束みたいな恋をした」をみて、「ピクニック」をよんだ話。

私は、ひとり映画ができない。
というのも、終わったときの感情を
自分ひとりで留めておけないから。

「私、ピクニックを読んで
なにを感じるか、試したくなっちゃったな」
と、
これは一緒に映画を見た相手ではないのだけど
同じ映画をみたということで
話題に上がったときに友人が言った。

このタイトル通りに行動したひとは、
何人もいるだろうな。
私も、そのひとことがきっかけで
一気に読みたくなってしまった。


作中で就活中に圧迫面接を受けたヒロインに

「あの面接官は、きっと今村夏子さんのピクニックを読んでも、なにも感じないんだよ」

と、恋人が言うシーンがある(うろ覚え)。


のちに、社会に揉まれる恋人に

「その上司は、きっと今村夏子さんのピクニックを読んでも、なにも感じないんだよ」

と、ヒロインからそっくりそのまま返ってくる台詞でもあるのだけれど(うろ覚え)。


一緒にこの映画をみた友人と一緒にカフェに行った。
お互いなにをしてもいいタイムだったので、
読みかけのピクニック、いや、
ピクニックはお話のタイトルで
本のタイトルは「こちらあみ子」、を渡した。

友人は こちらあみ子 をとばし、
ピクニックから読んでいた。
黙々と作業を続ける私の目の前で
友人がなんとも言えない表情で、顔を上げた。
「私、なにも感じないのかもしれない」


ある友人は、
「私、今村夏子先生が1番すき」
と、言っていた。


なんなんだ、今村夏子。
なんなんだ、ピクニック。


そして、私は昨日ピクニックを読み終えた。


私が地元と呼ぶまちに引っ越す前に
暮らしていた、生まれたまちの頃の記憶。
一緒に幼稚園バスで揺られていた女の子のこと。

その子の家には、いろんな味のクッキーがあると言っていた。
いちごくっきーは?
「あるよ」
じゃあ、みるくてぃー!
「ある」
ばにらあいす!
「それもある」
じゃあこんどおうちにあそびにいってもいー?
「・・・」

その子のことを思い出した。
だけ、だった。


なんだかこの感じは、久しぶりな気がした。
自分じゃない誰かの、
人生を覗き見する感じ。

映画を見たあとに考察し合うみたいに
なんか、このお話に「意味」を見出すこと自体
したくないと思った。

それは、初めてだったかもしれない。


この小説を読む前、
れもん、よむもん!
という読書遍歴コミックエッセイみたいなものを読んでいた。

それを読んで、
あー、
読書って自分以外になれるやつだったよなー
って思い出したりなどした。

それと同時にその本には、
「子どもの頃に読んだ本が、
そのひとを形成する」
みたいなことが書いてあって、
じゃあこの年齢になって読むものはただの娯楽なのか?
という疑問がぐるぐるしてた。

あー、もしかしたら
過去とつないじゃうのかもしれないなー
と思ったけど、
でもピクニックは
自分が生きてきた世界とは
全然違う世界の話なのに、
なんで過去のことを思い出したんだろう?
っていう不思議体験だったなー


ピクニックを読んで、
「なにも感じない」って
「なにか感じる」って、
一体なんなんだろうね?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?