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喪失感

本日、バイクを手放した。約7年の付き合いであった。乗った距離は一般的な基準でいうと短いほうなのだが、それでも振り返ってみると思い出がたくさんある。

バイクは左右のバランスを取る必要があったり、生身で外界と接していることもあり、車に比べて感覚をたくさん使う乗り物である。風圧、路面状況、エンジン音、いろんなことを常に感じ取りながら操るのが楽しい。しかし、乗るのに適した季節や天候は限られており、移動手段としてはなんとも不便なものだ。最高のバイク日和に乗ったことよりも、真夏、真冬、雨、雪などのひどい記憶のほうが色濃く残っている。しかし、そのどれもが今となってはよい思い出だ。バイクは思い出話を一緒に語ってくれるわけではないが、自分の中ではそんなひどい経験を共にした仲間としていつの間にか少しばかり大切な存在になっていたようだ。

業者に引き取られる際、最後にポンポンとシートを叩き、また誰かにかわいがってもらえるといいな、などと思っていたところ、思いのほか感傷的になっている自分に気づいてしまった。

断捨離や家計の固定費ダウン活動の一貫で、今どうしても自分にとって必要というわけではないものを少しずつ整理しているわけだが、たいていの場合と同じように手放すことですっきりするかと思いきや、今回は心に小さな穴が開いた。その理由をずっと考えていたのだが、やっとひとつの答えのようなものにたどり着いた。優秀で控え目で、すごくいいやつだったのだ。余計なストレスを感じさせることなく、走ることを実直に果たしてくれた相棒だった。道具に対して自分が求めることに答え続けてくれたことで、自分にとっては道具以上の存在になっていったということなのだろうか。

長くひとつのものを使い続けるうちに、特別な思い入れが生じることがある。手に入れた経緯とは無関係にだ。そういう存在になったものは、可能な場合には手入れや修理をしながら長く使い、役目を終えるときが自然と来る。こういうお別れにはちょっぴり切なさはあるものの清々しさを感じるものだが、今回はタイミングが悪かったかな。特別な思い入れは生じていたし、まだまだ使い続けられた、それにも関わらず手放した。しまった。これはちょっとした後悔として心に残りそうだ。この失恋にも似た懐かしいような気持ちまで体験させてくれるとは、やはりあなどれないやつだった。また次の誰かの素敵な相棒になることを祈ろう。では、また。


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