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よの32 あ

午前中、北村様と商談があった。
私は不動産会社の営業課長。
北村様は売主で取引が成立したのだ。

希望価格で売れてご満悦のはずの北村様だが、打ち合わせ中顔色ひとつ変えず淡々と話しを進めた。
実際、言葉数少なく表情の読みにくい北村様はやりにくい顧客のひとりであった。

無駄が嫌いで冗談が通じないタイプである。

北村様は端的に商談を済ませて帰り支度をしながら、
「この度はありがとうございます。希望通りになって本当に嬉しいです」
と本当に嬉しいのかどうか非常に分かりにくい表情で言った。

私がすかさずお礼を述べると、
「余談ですが・・」
と北村様は私をじっと見た。

やや間があって、
「あなた、『あ』と、100回言われるかもしれませんね。しかも1日で・・」

え?
聞き返す間もなく北村様は無駄のない動きで帰っていってしまった。

どういうこと?

私は談話室に残り思考不能に陥った。
まずもって意味がわからない。

私は懸命に頭を整理した。

冗談をいうような人ではない。
と同時に無駄な(意味のない)話をする人でもない。

もしかすると私が聞き間違っていたのかもしれない。もっと違う意味だったのかもしれない。

あるいは。
表情には出さなかったが、内心舞い上がっていて、思わずとんちんかんなことを口走ってしまったのかもしれない。

ああ見えて本当はお茶目な人なのかもしれない。

しかし。

長年営業という仕事をやっていると、こういった謎めいた出来事は起こりうるものだ。その度ごとにいちいち気にしていてもしようがないのだ。それにそれが起こったからといって支障があるわけでもない。

忘れよう。

私はそう結論して仕事に戻ろうとすると、突然談話室のドアが開いた。

「あ・・」
事務員の山口さんが誰もいないと思ってドアを開けたのだ。
「あ、あ、すいません」
と慌てて閉めて出て行った。

今、彼女は確かに、あ、と3回言った。

いや。しかし。
いたって普通の出来事に過ぎないじゃないか。気にするから気になるのだ。それに、だからどうだっていうのだ。

私は気を取り直して、自分のデスクに戻ろうと談話室のドアを開けると、目の前に同僚の岡田がいてドアが当たりそうになった。
「あ」
と岡田が声をあげた。
山積みの資料を持ちながら岡田はバランスを崩しながら、
「あ、あ、あ、あ~」

資料全部が床に落ちてしまった。
「あ~、あ~、あ~、やっちゃった」
「ご、ごめん」
と私は資料を拾うのを手伝った。

今、岡田は8回、あ、と言った。

「そういえば、さっきのお客さん、誰だっけ?」
「北村さんのこと?」
「あ~、どっかで逢ったような・・」
「北池5丁目の売主だよ」
「あ、あ、あ~思い出した。あ~、あ~、あの口数の少ない売主様ね。なかなか難しい感じの人だったじゃないか。よく成立させたな」

さらに岡田は6回、あ、と言った。なんと一人で14回。

私はデスクに戻ってすぐ取引先業者に電話を掛けた。
「昨日修理してもらった浴室の換気扇なんですが」
「あ?」
「昨日修理してもらった浴室の換気扇の件で」
「あ?すまん、周りがうるさくて・・」
「浴室の換気扇の件です」
「あ?浴室のなに?」
「換気扇です」
「あ?かんせん?昨日の工事の件かね」
「そうです。換気扇の調子がよくないみたいで」
「あ?換気扇直ったかね」
「いや、駄目です」
「あ?駄目?」

話しが噛み合わないながらも、なんとか用件を理解してもらい受話器を置くと、後輩の山田が硬直した顔つきで私の目の前に立っていた。

トラブルだな。

山田は(おそらく)トラブルを報告しようと私を見つめながら、言葉を切り出せないでいる。

「あ、あの、あ、あ、あの課長、あ、実は、あ、あ、あ・・」

山田は緊張するとどもる。
今日はよほど重大なトラブルなのか、さっきから、あ、しか言わない。

私はふと時計に目をやる。正午12時10分前だ。
今日は12時から歯医者の予約をしていた。

「山田君、一度状況を書き出して整理してみたらどうかね。明日でもまた話しを聞くよ」
「あ、あ、わかりました」

話しながらも私は冷静に、あ、の回数を数えていた。

しかし。
普通は、わ、わ、わかりました。と言うべきじゃないかと思いながら私は歯医者へ急いだ。

歯医者で治療が始まった。
歯科助手がやさしい声で
「あ~、あ~してください。そうそう。あ~」
先生も一緒に
「あ~、あ~ですよ。もうちょっと、あ~できますか?すぐ終わりますからね。あ~、あ~しててくださいね。そうそう。あ~」

午後一番、マンションの設備調査に行った。車を入口付近に停め、部屋に向かおうとすると、
「あ、あ、あ、あ」と声を出しながら管理人らしき人が飛び出してきた。
「そこに車停めないでください。向こうの来客用に停めて」

部屋に向かうためエレベーターに乗るとなんと旧友が乗っていた。
「あ~!あ~!あ~!あ~久しぶり。何年振りかな」と旧友。まさか、こんなところで会うなんて。

設備調査を終え、私は急いで事務所に戻った。
今週は契約で立て込んでいる。これからが大変なのだ。私は事務所の一室に閉じこもり、複数の契約書作成業務に没頭した。

時刻は22時半を回っていた。
もうこんな時間か。切り上げて帰ろう。

私は終電に遅れないよう帰り道を急ぎ足で歩いた。
歩きながら思い起こしていた。

それにしても。

今日はずいぶん『あ』と言われた。
全部で、確か、50回ほど。

たまたま契約ラッシュで部屋に立てこもっていなければ、ひょっとすると100回いってたかもしれない。

仕事で疲れた私は駅のホームにぼんやりと立って電車を待っていた。その時たまたま隣りに立った見知らぬ女性と目が合った。

その女性が私の顔を見て、あ、と言った。

え?なにか、と私が言いかけると、
あ。なんでもないです。間違えましたと、目を逸らしながら去っていった。

帰りの電車の中、
うつらうつらしながら、ふと目の前に座っている男性を見ると、口を少し開けながらこちらを見ている。

あきらかにあれは、『あ』の口だ。
声を出していなくても一カウントなのだろうか。

ぼんやりしながら考えていると、次の駅で一人の男性が乗り込んできた。

予感を感じさせる一風変わった男性。
私の隣りに座った。

その男性はしばらくして、ゆっくりと小さな声を出し始めた。よく聞くと、あ、あ、と言っているようだ。

そしてその男性と私の目が合う。

男性はおもむろに手を口に当て、軽く口を叩きながら、「あああああああああああ・・」
と声を発生し始めた。

終電のまばらな乗客の中、あ、の音が鳴り響いた。

そしてその音は突然ピタリと止み、その男は何事もなかったかのように大人しくなった。

次の駅でその男は降りていった。

静まりかえった電車の中、ふと時計に目をやるとちょうど12時を回ったところだった。




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kawawano

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