見出し画像

板垣真任さんによる『ののの』感想

<はじめに>
公募号『ODD ZINE vol. 9』に「館の犬」という作品で参加いただいた板垣真任さんより、 僕の単著『ののの』に掲載されている作品すべての感想が届きました。
「もし太田さんの自作宣伝etc.に活用できそうだと思いましたら、ぜひ自由に使ってください」と添えられていたため、 板垣さんに代わり、僕のこのnoteにて公開いたします。
(※転記に際して作品名のみ文字を大きく太字にしました) 

太田靖久 (2022/9/24)

 
板垣真任さんによる『ののの』感想

「ののの」

 読み進めていくにつれ、言葉や物語や記憶をどのように自分は扱っていきたいか、という意思表明のようなものを感じる。当時の書き手は言葉で外の世界に出たかったのだから、自然なことだろう。何より、私自身にも憶えがあることなのだ。私は、この作品を虚数のような感触の作品だと考えた。二乗するとマイナスになる、常識上はあり得ない数のことで、しかしそうした設定を導入しないと、この世界は計算できないのである(たぶん)。いちおうウィキペディアで調べてみると、次のように書いてある。「虚数単位 i は実数でないため、感覚的には存在しない数ととらえられがちであるが、実数 C の直積集合の元として、実数の対(ハミルトンの定義)、行列表現、多項式環の剰余環などにより実現できる。」数学の知識は無いので、つまりどういうことかは分からないが、作品に対する自分の直感は合っているのではないかと、そういうことは思った。
 説明のための説明はここまでにして、作品序盤から本文をいくつか引用したい。
「彼の首から下がっていたビニールヒモが辻に立つ木の太い枝先に引っ掛かった。」(9)
「骨組みだけの高層ビル、埋め立てたものの別の場所から水が湧き出した沼 … 滑走路が五十メートル短いだけで使用できない空港、川の水を塞き止めることのできないダム …。」(13-14)
「目がひらがなの「の」の形をした巨大な鳥」(21)
「人間関係に疲れ、社会に不満を持った人が火のついたタバコを本の山に投げても、すぐに消えた。その本に特殊な防虫・防火加工がなされているのかもしれなかった」(26)
「これは僕の父親が僕の父親の言うことなら何でも聞く男を真冬のパリに送り、あるブランドショップの先頭に並ばせて買った、この世で五足しか存在しない貴重な靴なんだ。三十万以上はするよ」(28)
 
以上に挙げた文は、起こったことの描写もあれば、語りの中のイメージもあり、そして人物の声もある。しかしその区別はあまり重要ではなく、想像できそうで、想像できない。想像できなさそうで、想像できる。そのような句が折り重なって読み手を先に連れていく。これが最大の魅力だ。「難破船」や「白い本」を通じて書き手(の配置する人物たち)が強く伝えたいことを、読み手として、ひとまずかわしてしまうようなたちなので、私は虚数のような細部に惹かれたとまずは伝えたい。序盤のみ抜き書きしたが、ほぼ全ページにそのような部分を指摘できる。これらは書き手の想像力ではなく視力によるものだろう(ただし、「白い本」については、再読時に「高速道路の高架下、空き地、封鎖されたトンネル内、国有地や国有林、廃校となった小学校のグラウンドや体育館などに放置されていること」(25)を確認し、印象がまた変わった)。
 33ページの最後からしばらく青年期の「僕」の話に移る。硬い言葉と日常的なこと、水に濡れた布のように意味を含んだ言葉と、意味が詰まるのを待つ空袋のような言葉が、独特のリズムで交互に繰り返される点が、作品全体の特徴である。中盤あたりになると、その持ち味に少しだけ慣れてしまう。あまりにもたんぱくな「僕」が、緊張と緩慢を読み手にもたらす。その後、「奥津さん」の話に飛ぶのだが、私はこれを前パートの女性とのやりとりよりずっと魅力的に読んだ。
「古い本って甘くないチョコレートの匂いがするよね」(69)
「本ってさ、作者の都合や想いもあるんだろうけど、退屈して読み飛ばしたくなる箇所も出てくるよね。この前読んだ本は少年と犬の交流が丁寧に描かれていたのに、少年の担任の不倫話が延々と続いて嫌な気持ちになった。私はそこをななめ読みして、『犬』の文字を探した。『犬、犬、犬』って口にしながら、ページをめくって犬を探した」(69)
このあと71ページ後半までつづく流れは、すべてが好きである。「複雑だが重要なことがきっと書いてある」と、素直に言いたい。
 後半のパートから私は鉛筆を持ちながら文を読んだので、線を引いた部分を以下に挙げたい。
「フォークギターを叩き折ったりして」(72)
「ビニール袋に入った大量の指輪」(74)
「細々とした情報にも目が届いている」(78)
「いつまでも回転を続ける彼」(86)
その後、作品は小説として少し込み入った構造を示し始める。ある人物が感極まるところで、ここまで読んできて良かったと思う。書き手の戦略に、まんまと乗った。そして最後のページにて、静かな感動が私を打った。「静かな感動」とは陳腐かもしれないが、水の氾濫という出来事はどうしても2011年を経た今では特別なものを帯びてしまうのだ。「ののの」は2010年の秋に掲載された作品である。私は各人の「ののの」評について、付属していた小冊子のものしか所持していない。何度も類似した指摘を言われて書き手はうんざりしているかもしれないが、2011年の春を経て、この作品が湛えるものは何か変わったのだろうか? この作品に飛びこんでくる最後の他者なる声は命令形である。それに対する「僕」の態度が作品を引き締めた。とはいえ、「汚い水」に襲われ、それをがぶ飲みしてしまうこともあるだろう。そんな見地をふまえると、私たちの実生活は「僕」の宣言を裏切って何かをふと思い出してしまうこともあり、この作品に新しいものを付け足すことができる。

「かぜまち」

 ここにある3つの作品には共通して水辺、川辺、海辺などが描かれる。しかし書きぶりはそこの水に濡らされていない。書き手の作ろうとするものは、白い本の山のように湿らず、乾いている。この作品は、3つのなかでひときわ淡彩で、乾いていた。読むのが難しかった。3つのなかで、もっとも人物が規範的に配置されており、いわゆる「人間ドラマ」を期待したのだが、その通りではなかったからかもしれない。私だったら、イサオをもっと書き込むだろう(「老人ファイトクラブ」、最高だ。これだけで小説が書けるのではないか)とか、私だったら、「僕」にもっと残酷な光景を見せるだろうとか、そのようなことを考えた。そして、自分の傾向を省みることもできた。書き手は、日本文学的な湿り気から遊離し、しかし、その水源を見つめることはやめない。そこを通り抜けて吹いてくる風に対して、私たちの前の世代のように持ち上げ、意味づけることも避けている。
「助手席に座っている間は道を覚えられないものだ」(120)
という言葉が作品の中でいちばん好きであり、また、作品を象徴しているようにも思える。作品が運転席から語られ始めるときに、もっとこの声が響いていたら個人的には面白かったかもしれない。運転席から語られる、「良い風」と「悪い風」(146)という見解に、「ののの」で印象的に溢れてきた「汚い水」を思い起こす。人間的な価値判断や理科的な説明ではなく、これは書き手の動物的な気持ちではないか。そのような気持ちは、「ろんど」にも応用されている。

 「ろんど」

 2016年の作品。たしかにドローンが人口に膾炙し始めたのはこのころだったかなと思う。「ロンド」という音楽の形式は、主題の反復を特徴とするそうだ。「回旋曲」とも呼ぶらしい。書き手はすばらしいキーワードを手に入れたのだと思った。ドローンは空を飛び、俯瞰する目線を持ち、映像を保存する機能を持つ。それらの特徴は余すことなく作品の筋に活かされ、溶かしこまれているが、読書中に強く感銘を受けたのはろんどの「動」ではなく「静」だった。私はドローンについての知識をいっさい持たないが、きゃしゃで繊細な機械なのだろうという印象はある。そうした私の先入観が良い方向に働き、ろんどが母に静かにいだかれるイメージが、抜群であった。しかし、それにも増して私がもっとも好きだったのは、ろんどとドアの出会いだった。
「入口らしき木製のドアにはブドウやイチゴの彫刻がほどこされています。黒ずんで汚れてはいますが、ドアの中央に四つのネジ穴らしきものがありました。」(174)
繰り返してきた評言だが、目がいい。ドアの痕跡に喚起力がある。この作品ではろんどの目だが、ドローンに期待される目ではなく、書き手がろんどに目を貸与している(逆かもしれない)。「私を呼んでいたのはこのドアだったのです」(174)。好きな一文。声がドアの向こうから聞こえてくるとするのは、人間の考えである。このテクストが非人間の物語であることを裏付けるのは、ろんどの一人称の語りではなく、私としては、ここに核心をおきたい。次に引用するのが、もっとも好きな一文。
「今私は、かつてその人がドアからプレートをはずす際に立っていた場所に身体を落ちつけています。ここに置かれた両足の痕跡を辿ることは不可能です。私はドアとプレートの思い出から過去の状況を推察しただけでした。それなのにその人と長い時間を共に過ごしていたような気持ちになりました。」 (175-76)
ろんどが、或る場所に落ちついている。空をぶんぶん飛んで映像を撮るのではなく、静かに留まることによって、ほんらい自分の機能にはないものに目覚めている。「その人」ってどの人だっけ? と、こちらの読む目を少し後退させるのも良い(私も、ろんどと共にページに留まりつつ、何かを思い出す)。「その人」は匿名の淡い存在であり、ろんどは三行でその生を語っていたのだった。
 
 この作品に反復されるのは、「ありがとう。おかえり」という言葉である。そして私は最後のページに辿り着く。すでに誰かが指摘していたらちょい恥ずかしいが、そういえば「の」というひらがなの書き筋は、空をゆくろんどの軌跡に似ているのではないか(ここで私は、locusという自分の好きな英単語を想起する、「場所」という意味と「軌跡」という意味の双方を指し示す)。作品集全体に、いわゆる「純文学」の読み手であり書き手である私(のような主体)が強く憧れたり、やっぱり抑圧したり、いい加減忘れたり、とっくに通り過ぎたと思っていたフォームが連写されていた。動きのよい運動選手がいつの間にかお母さんになっており、「おかえり」と語りかける構成は、大胆な選択だ。私たちは文学のこども、きゃしゃな機械なのかもしれない。ろんどの、母への返事は文中で語られない。応答は静かな沈黙のうちにもあるのだろうから、私もここで筆をおく。

以上が板垣さんによる「ののの」「かぜまち」「ろんど」の感想です。

参考『ののの』(2020年10月刊行/書肆汽水域)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?