1980年12月8日19時のニュース。
幼馴染にタノウエ君という同級生がいて、
両親が新聞販売店を経営していた。
読売新聞の専売店だ。
中学1年の時に久しぶりに近所で会って、
公園で立ち話をしていると、
ウチにおいでよと誘われた。
タノウエ君のウチは公園のそばにある。
販売店の奥に入っていくのかと思ったら、
脇の外階段を昇って2階へ向かった。
昔ながらのアパートによくある、
鉄製でトントン音がする階段で、
入り口にカラーボックスのような靴箱がたくさん並んでいた。
正面に廊下が続いて扉がいくつも並んでいた。
「下で働いている人の寮なんだ」
とタノウエ君は説明した。
「俺もこっちに越してきたの」
廊下の真ん中あたりの扉を開けて、
「ここが俺の部屋」
とタノウエ君は言った。
そこは薄暗い四畳半の部屋で、
小さなガス台と流しが付いていた。
畳の奥に万年床が敷いてあって、
タノウエ君は半分に折り畳むと、
ソファーのようにしてそこに座った。
私たちは小学校2年と3年の時だけ同級生で、
それ以外は別だったが、
小学生の間は先ほどの公園で近所の仲間と集まり、
野球などをして遊んでいた。
2年と3年の時同じクラスなのは、
1年が終わると新しい小学校ができて、
プレハブ校舎にいた半分の児童が、
そちらに行ってしまい、
残った児童で2年の時にクラス替えが行われたからだ。
したがって4年から6年の3年間はクラス替えはなかった。
タノウエ君とは同じ中学校に行ったが、
クラスは別だったので、
話すことはたくさんあった。
中学校のこと。
先生のこと。
不良になった幼馴染のこと。
アントニオ猪木のこと。
タイガーマスクのこと。
ショーケンのこと。
太陽に吠えろのこと。
私立に行ってしまった幼馴染のこと。
そのうちタノウエ君が、
「音楽聴く?」
と言って部屋を出ていった。
しばらくしてLPレコードを1枚持ってきた。
「兄貴の部屋にたくさんあるんだよ」
タノウエ君がその時持ってきたのが、
『ラバーソウル』だった。
その後タノウエ君に、
ビートルズやサイモン&ガーファンクルやクイーンを、
さらにはフォークギターの初歩まで教えてもらった。
私の家には、シングルレコードしか再生できない、
ポータブルプレイヤーしかなかったが、
中学2年になると両親が建売の二階建て住宅を買ったので、
六畳の子ども部屋をもらった。
その際にねだってステレオセットを買ってもらった。
以来、お年玉や小遣いでギターやLPレコードを買うようになった。
近所に小さなレコード屋はあったが、
品揃えが少なく、
海外のミュージシャンのレコードは、
オリビアニュートンジョンやアバぐらいしかなかった。
ロックのLPは売っていなかった。
そんな頃、大きな駅前に輸入レコード店が出来た。
大きな駅というのは、
私たちの町には鉄道の大きな駅と小さな駅があり、
私の家に近いのは小さな駅であり、
商店街は寂れていた。
大きな駅にはいくつも商店街があり、
マクドナルドもケンタッキーも映画館も大きな書店もあった。
大きな駅までは歩くと40分、
自転車で12、3分。
私は放課後に輸入レコード店に通い詰めた。
そこにはなんでもあった。
例えばビートルズのコーナーには、
「ラバーソウル」が何種類もあった。
イギリス盤、アメリカ盤、ドイツ盤、海賊盤、、、。
多くの場合は店頭でそれらの違いを眺めているだけだったが、
ベストアルバムである赤盤と青盤だけは価格の安いアメリカ盤を買って、
文字通り擦り切れるほど聴いた。
タノウエ君にも時々会って、
買ったレコードや聴いている音楽の話をした。
その頃にはビートルズのオリジナルアルバムは全て聴き、
ポールやジョンのソロアルバムには手を出し始めていた。
ただし、輸入盤にはライナーノーツが付いてないから、
歌詞がよくわからないので、
タノウエ君に兄が持っている国内盤を借りて、
輸入盤と照らし合わせたりしていた。
私がビートルズを聴き出したのは1970年代後期で、
その時すでにバンドは解散していた。
ビートルズは日本にも来日していたが、
その頃私はまだ幼児だった。
そのことを知り私はショックを受けた。
国内盤のライナーノーツで、
歌詞を翻訳していたのは湯川れいこだった。
解説も多く兼ねていたが、
ジョンのソロアルバムでは内田裕也が書いていた。
内田裕也によると、
ジョンは1975年から子育てのために音楽活動を休止していて、
ニューヨークのダコタというアパートに住んでいる、
と記してあった。
<アパート?>
私の想像するアパートは、
二階建ての外階段がミシミシする、
昭和な貧しいモルタル木造のアパートであったから、
ジョンも大変だなあとさらにショックを受けた。
中学3年になると、
親しくなった同級生2人がビートルズファンだった。
モウリ君とジャジマ君だ。
二人はビートルズだけでなくウイングスもよく聴いていた。
昼休みに同級生がピンクレディのモノマネをしてる片隅で、
「ジェット!」
と叫びながらウイングスを一緒にハモっていた。
1979年の秋、
父親が読売新聞と一緒に購読していた報知新聞に、
<ウイングス1月に来日>と記事が出た。
私は記事を切り抜いて、
モウリ君とジャジマ君に持っていった。
「行くしかない!」
私たちは同意した。
「行くしかない!」
私たちは高校受験を控えていた。
2月には試験がある。
それでも「行くしかない!」だった。
その秋、金曜8時ブラウン管の向こうで、
武田鉄矢が金八先生を熱演していたが、
ブラウン管のこちら側には熱血教師はいなかった。
校内暴力、
不良の天下だった。
私たちは親たちを説得した。
そして3人揃って表参道まで小さな冒険の旅に出た。
表参道にはウドー音楽事務所があった。
ウイングスのチケットを買うには、
まずウドー音楽事務所で整理券を貰わないといけないのだった。
この冒険については長くなるので、
別の機会に書こう。
整理券は手に入れた。
でもそれだけでは済まなかった。
整理券を持って並ばないとならないのだ。
その先も長くなる。
ともかくチケットは手に入った。
そして運命の1980年になった。
1月に公演のために来日したポールが、
成田空港で逮捕された。
大麻所持である。
公演は当然ながらキャンセルされた。
2月に受験があり、
3月に私たちは無事中学を卒業、
4月にそれぞれの違う高校の新入生になった。
私は電車を乗り継いで高校に通っていた。
放課後、私鉄の大きな駅で途中下車して、
書店と輸入レコード店と喫茶店で時間を潰していた。
夏に吉報が入った。
ジョンが音楽活動を再開するらしい。
11月にシングルが発売。
翌週には海外で「ダブルファンタジー」が発売された。
国内盤発売は12月だったので、
私は私鉄沿線の輸入レコード店で輸入盤を先に買った。
「ダブルファンタジー」は、
今までのジョンのソロアルバムと違って、
苦悩する自我の叫びはなく、
家族の愛に包まれたリラックスした喜びが溢れていたが、
半分以上の楽曲がオノヨーコの、
魔女の叫びのような作品であることには閉口した。
12月になった。
その頃にはシングルが日本でも売れ、
アルバムのプロモーションビデオが頻繁に放映されたり、
篠山紀信が撮ったジョンとヨーコの写真集が出たり、
翌年に来日公演が予定されているなどと、
ジョンの話題で持ち切りだった。
あれは期末試験の2日目だったと思う。
翌朝の一発目が数学だった。
その頃民放でも19時からニュース番組をやっていた。
こたつで家族と食事をしながら、
フジテレビのニュースを見ていると、
「なんとかなんとかのジョンレノンが」
「なんとかなんとかで射殺された」
と聴こえた。
えっと思っているうちに、
アナウンサーが、
「それではジョンの唄う、
<ヘイジュード>を聴きましょう」
と言って、
ポールがピアノを弾き語りする<ヘイジュード>の、
プロモーションビデオが放映された。
ジョンちゃうやろ、
ポールやん。
その晩はあらゆるチャンネルのニュースを見て、
22時になると自分の部屋にこもって、
ラジオでジョンの追悼番組を朝まで聴いていた。
数学の勉強はできなかった。
1980年12月8日(日本時間12月9日)、
ジョンは40歳になったばかりだった。
その日から40年の歳月が経った。
ポールは新しいアルバムを今月発売する。
アントニオ猪木は引退し、
タイガーマスクは何度か引退しまた復帰、
ボズもマカロニもあの世に去った。
不良少女だった三原じゅん子は副大臣になり、
武田鉄矢は水戸黄門を演じている。
そして私はジョンよりはるか年上の、
初老のオヤジになった。
もしも、私の文章で<人生はそんなに悪くない>と思っていただけたら、とても嬉しいです。私も<人生はそんなに悪くない>と思っています。ご縁がありましたら、バトンをお繋ぎいただけますと、とても助かります。