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第19走者 渡邉恵里:雲を眺めながら「期待」について考える

岩永先生の「期待する」というお話に触発され、バトンを受け取りました。


この「バトンを受け取ったこと」について考えてみました。

このバトンを受け取ったのは、エッセイを書いてほしいという川谷先生からの期待があるからではなく、純粋に自分が書きたくなったから、だと思います。
川谷先生も、私が今、時間に余裕のない状態であることは知っていて、期待していないはずだから。
ですが、優先順位的にもっとやらなければならないことが沢山あるのに、衝動に駆られて書いてしまったがために、これが続くと「忙しくても書けるだろう」という期待を起こさせてしまうのではないか。
となると、今後もっともっと苦しくなってしまう…

私が他者の期待に囚われているとしたら、そう思って、ここは書かない選択で期待を起こさせないようにしたでしょう。
少なくとも、スピノザと出会う前の私はそうしていたはずです。

ですがスピノザを学んだ私は、悩んだときはスピノザの方法に従って考えることにしています。


―今、岩永先生のエッセイを読んで「期待する」ことについて頭に浮かんだことを文章にまとめて、自分の考えをより深めたいという欲望が生じた。それは自分をより理解することにつながるし、これを読んだ人が、私という人間がどんなことを考えている人か知ることになり、ひょっとすると、受診を前に抱えている不安な気持ちを軽減させてくれるかもしれない。そしてこの文章は、誰かを傷つけるものでもない。-

となると能動的な行動です。
ただ、他にもやらなければならないことがある中、取り組むということは、自分を追い詰めてしまうことにもなり得ます。
自分にも周りにも悪くない行動というのは沢山あるのだけれど、思いついたものすべてに飛びついていると、時間が足りないのです。
ですが、時には、ちょっと違うことに時間を使ったことで、自分が生き生きとしてきて、やらなければならないことに対する集中力が増し、効率よく取り組めるようになる、ということだってあります。

では、やりたいこと、やらなければならないことが山ほどある中で、何を選べばよいのか。
この問題と直面した時に、私は、スピノザの述べた「名誉欲」を参考に考えます。

名誉欲は、前回杉本先生も書いていたとおり、承認欲求にも置き換えられると思います。
スピノザも、名誉欲を持ってしまうことは仕方のないことだと述べているものの、名誉欲は他者の存在から発生するものなので、受動感情に基づいたものです。
つまり、名誉欲に突き動かされて行動することは、自分本来の在り方に沿ったものではないかもしれないし、スピノザも述べているように、名誉欲に囚われてしまうと、その先に待っているものは苦しみかもしれません。
もし私がこのエッセイを書くことで、エッセイがバズって有名になりたい、と思っているのであれば、そのための努力に躍起になり、スキを沢山集めるにはどうしたらいいかとか、SNSで拡散するキャッチ―なワードを考えるとか、そういうことにかまけてしまいます。
その結果、名誉欲が自分の努力に見合うほどには満たされなかったとき、絶望を感じるでしょう。
そんなことを考えながら、私は、エッセイを書くことについて考えて、別に名誉欲が満たされなくても平気だな、ただ書くことが楽しそうだなと思ったので、こうして書くことに決めました。
他者からの良い評価、報酬がなくても自分の成長につながりそうなものは実行するけれど、良い評価や報酬がないとがっかりしそうなときは名誉欲に駆られた行動なので、「今はやらない方がいい」と判断しています。

ちなみに私は、「期待する」というのは、人と人が接触すると、ほとんど必ずと言っていいほど生じるものかなと思っています。

スーパーのレジで順番を守って並ぶこと、決められた曜日と場所にゴミを出すこと、挨拶されたらそれなりに反応すること…
社会の中で生きる時点で、一定の期待をされています。
飼っているペットだって、ご飯を全部食べることを期待されています。
全ての生き物に観念があるのだとしたら、ミツバチも、花に受粉の手伝いをすることを期待されていますし、働き蟻は女王蟻に餌を集めてくることを期待されています。


少し、話が変わります。
先日、今月から始まった福岡市科学館の「すごすぎる天気の図観展」を鑑賞してきました。
連れて行った子どもよりも私の方が楽しんでいて、翌日からも家を出るときや帰宅時に、空を見上げては「巻雲」「巻積雲」・・・と、そこで知った雲の名前を思い出し、ワクワクの余韻に浸っています。

特に面白かったのが「積乱雲の一生」。
積乱雲は、低気圧の塊に上昇気流がぶつかるところから始まります。
上昇気流は上昇して温度が下がることで積雲になります。
低気圧に持ち上げてもらい、ある一線を越えると、一人で上昇できるようになります。どんどん上昇し、大きくなりながら、積乱雲になります。
ところが、上昇には限界があり、これ以上大きくなれない、となった時、悲しい気持ちの「下降気流」に支配されつつ、涙(雨)を流します。
悲しい気持ちの下降気流に支配され、積乱雲は地上に達し、消えていきます。
するとそこで新たな上昇気流とぶつかり、今度はそれを応援する側に回ります。

「人間みたいですよね」と紹介されているこの「積乱雲の一生」。
でも、ただ儚く消えていくだけでなく、新しい雲の発生を助け、次に繋いでいく、というところに夢がありますよね。

これも、また別の見方をすると、下降気流に支配された低気圧は、上昇気流を持ち上げる役割を果たすという期待をされています。
もしかすると、低気圧が果たせなかった夢を果たすことを上昇気流に期待しているかもしれません。
互いに絶妙に絡み合っている自然現象も、互いに「期待」し合っているのかもしれない、と思うと、私たちの「期待」も、新しい見方ができるのではないかと思います。

つまり、人と人との相互作用の結果生じる「期待」は、自然現象の一つであり、互いの存在を維持し、つなぐための支え合いだと私は感じます。
期待に応えないことも、応えないことで生じる現象を生むために必要なことで、その瞬間は大雨のような、一見困ったことに見えるかもしれませんが、大雨だって、その後の高気圧が来るために必要なものであるように、その瞬間の「期待に応えない」ということも、大きな自然現象として捉えると、決して困ったこととは言い切れないものだと思うのです。


というわけで、このリレーエッセイも、書く人と読む人が、それぞれ何かを期待して考えて読んで、新しい観念が浮かぶことを期待します。
期待通りでないこともまた、そこに新鮮な発見が見つかるきっかけになるかもしれないので。

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