見出し画像

第20走者川谷大治:希望と恐怖

 岩永先生のバトンを受けて。
 岩永先生の「期待」について渡辺先生と共にリレーします。岩永先生は「親は世代間連鎖で当たり前に子供に期待もするし、愛情故にこうあってほしいと期待して祈るのです。ここでの大きすぎる期待や愛情は『呪い』になるのかもしれませんが・・・」と述べて、期待をかけられた者にとっては時に呪い(=重圧)になるからくりについて説明しました。
期待によく似た言葉に「希望」があります。期待も希望も「未来はこうあって欲しい」と願う心理は共通しています。違いは、前者は未来の明るい見通しを待ち望み、後者はそうなって欲しいと望んでいる点にあります。希望と期待の大きな違いは望む未来を待ち続けるかどうかの一点にあるのです。
期待と希望の違いについて角川類語新辞典をたよりにもう少し調べてみました。期待とは「当てにして待ち望むこと」です。その「当て」を彼/彼女が感じ取れば、期待をかけられた人にとっては相当なプレッシャーとなるでしょうね。ツーアウト満塁!ファンは、ここで一発ホームランと期待するでしょうし、選手はそれに応えないといけません。かなりのプレッシャーになりますし、それは「呪い」になりかねません。言わば、期待は二者関係で生じる心理です。
一方、希望とは「未来に望みを掛けること」でこうあってほしいと願い望むことです。得たいと願って積極的に求めることを「希求」といいます。当てが外れるとがっかりしますので、それを「失望」、望みが絶えてしまうと「絶望」に成り代わります。しかし、期待と違って、相手にプレッシャーを与えることはありません。「私は〇〇大学に進学することを希望します」というように、希望は一者関係の心理と言い換えることも可能です。
すなわち、期待と希望は未来に「こうあって欲しい」と願う点では共通しているのですが、期待は二者関係が成立しやすく相手にプレッシャーをかけますが、希望はあくまでも一者関係故に相手にプレッシャーをかけることはありません。
 
 期待と希望
それでは期待と希望について考えを深める前にスピノザに登場していただきましょう。『エチカ』第三部定理一八を引用します。
 
人間は過去あるいは未来の物の表象像によって、現在の物の表象像によるのと同様の喜びおよび悲しみの感情に刺激される。
 
  スピノザがここで「物を過去のものとか未来のものとか」呼ぶのは、かつてその物によって刺激されたかあるいは刺激されるであろう、という意味です。前の打席でヒットを打っていると、目の前のチャンスではホームランを打って欲しいと、期待が膨らみます。逆に、前の打席で三振していると、「三振するのではないか」と恐怖にかられます。期待しない方が精神的にはストレスが少ないですね。でも岡本選手はジャイアンツの4番打者なのだ。ここは一発ホームランをと期待するでしょう。ですが、オールスター明けでまだヒットが出ていないし、彼がホームランを打つか凡打に終わるか、不確かです。このように、期待と希望には疑惑がつきまとっているのがミソなのです。
 以上のことからスピノザは備考二で以下のように述べています。
 
今しがた述べたことどもから、我々は希望、恐怖、安堵、絶望、歓喜および落胆の何たるかを理解する。すなわち、希望とは我々がその結果について疑っている未来または過去の物の表象像から生ずる不確かな喜びにほかならない。これに反して恐怖とは同様に疑わしい物の表象像から生ずる不確かな悲しみである。さらにもしこれらの感情から疑惑が除去されれば希望は安堵になり、恐怖は絶望となる。すなわちそれらは我々が希望しまたは恐怖していた物の表象像から生ずる喜びまたは悲しみである。次に歓喜とは我々がその結果について疑っていた過去の物の表象像から生ずる喜びである。最後に落胆とは歓喜に対立する悲しみである。
 
国語辞典と違って論理的で分かりやすい定義ですね。それぞれを公式で表すと以下のようになるでしょうか。
希望=疑惑(不確かさ)+喜び  ☜未来を示す
安堵=希望-疑惑(不確かさ)  ☜結果を示す
恐怖=疑惑(不確かさ)+悲しみ ☜未来を示す
絶望=恐怖− 疑惑(不確かさ)  ☜結果を示す
歓喜=恐怖の逆転+喜び     ☜結果を示す
落胆=希望の逆転+悲しみ    ☜結果を示す
岡本選手がホームランを打つかどうか不確かです(疑惑)。彼の打率は10本のうち安打は3本程度なので、打てないのではないかという「疑惑」の方が大きい。しかし3割は一流の選手の証です。ファンは安打よりも難しいホームランを期待するし希望します。しかし、かつての長嶋選手のように「ここぞ」というときにファンの願いをより多く叶えてはくれません。また一方で、希望とは裏腹に、岡本選手自身は「打てないかもしれない」と疑ってしまうこともあるでしょう。チャンスの場面で燃えるか弱気になるかは選手の本性に由来します。長嶋選手は確かに燃えました。岡本選手は長嶋ほど燃えないように見えます。岡本選手の場合、「ここで一発打ってやろう」と燃える一方で、同時に、「打てなかったらどうしよう」と恐怖するのではないかと想像(イマギナチオ)するのです。スピノザの定義では「恐怖」は悲しみの感情故に身体活動の能力を低下させます。ですから呪いになり得るのですね。岩永先生の「呪い」とは恐怖による身体活動能力の低下だったのです。そして、結果的に、この疑惑が取り除かれることで安堵と絶望が生じるとスピノザは言っています。
 
疑惑と偶然性
 さて、期待と希望の問題はどこにあるのでしょうか。ずばり「疑惑(不確かさ)」にあります。岡本選手が必ずヒット(ホームランを含めて)を打てるかどうか確信を持てないところに疑惑が生まれるのです。『エチカ』第三部定理四四と系一を見てみましょう。
 
  事物を偶然としてでなく必然として観想することは理性の本性に属する。
  系一 この帰結として、我々が物を過去ならびに未来に関して偶然として観想するのはもっぱら表象力にのみ依存するということになる。
 
表象力とはイマギナチオのことです(私の第一走者『思い込みについて』を参照)。なぜ疑惑(不確かさ)がイマギナチオに依存しているのかという説明を致しましょう。私たちには、岡本選手がチャンスで打てるかどうか、それは過去に10割バッターだという事実が現れない限り、疑惑が残るからです。つまり、過去にチャンスで打ったり打てなかったりという正反対の記憶があるので、打って欲しいと願う一方で打てないのではと恐怖するのです。過去に必ずチャンスで打ったとか三振したとかいうデータがない限り、私たちは期待と恐怖のアンビバレントな状態に陥るのです。
議論を進める前にスピノザの偶然と必然について少々説明しておきます。スピノザが必然的であると述べる時には偶然とか可能と言われるものは成立しません。スピノザが「事物が偶然として」というときには、認識の欠陥がその原因となっています。偶然とは?第四部定義三を見てみましょう。
 
  我々が単に個物の本質のみに注意する場合に、その存在を必然的に定立しあるいはその存在を必然的に排除する何ものをも発見しない限り、私はその個物を偶然的と呼ぶ。
 
事物の本質の直接的な原因について何も知らないときに事物の偶然性が問題となるのです。岡本選手がホームランを打つという必然性はないので、スピノザは可能性もしくは偶然性と主張します。その期待の発生に「疑惑」があるというのがスピノザの主張なのです。「疑惑」があるからハラハラもします。「疑惑」がなかったら、結果は初めから必然的に分かっているので、いい思いはするでしょうが、隠し味のない料理に飽きが来るのと同じで、また観戦しようという欲求は生まれないかもしれないですね。つまり野球をはじめゲーム一般の楽しみはこの「疑惑(不確かさ)」にあると言っても言い過ぎではないのです。
 
偽惑の発生
疑惑(不確かさ)がプロ野球をハラハラさせ感動させる、それは良くも悪くも、歓喜と絶望を生む原因だという結論に至りました。この疑惑はイマギナチオにその原因があります。先の「思い込み」のエッセイで説明しましたように第一種の認識「イマギナチオ」は外的世界との衝突に由来する認識です。スピノザは、人間精神は我々の感覚的な表象や記号、そして意見(憶見)の二種類から構成されていると明言し、イマギナチオと名付けました。そこのところを詳しく見てみよう。イマギナチオは以下の2種類に由来します。第二部定理四〇備考二を引用します。意見オピニオンもしくは表象イマギナチオとは、
 
1.感覚を通して毀損的・混乱的にかつ知性による秩序づけなしに我々に現示され
るもろもろの個物から。このゆえに私は通常こうした知覚を漠然たる経験による認識と呼び慣れている。
2.もろもろの記号から。例えば我々がある語を聞くか読むかするとともに物を想起 し、それについて物自身が我々に与える観念と類似の観念を経由することから。
 
イマギチオは虚偽の唯一の原因であって誤謬の源泉です。「ツーアウト満塁、岡本選手がゆっくりと打席に入りました」。その姿を私たちは知覚しあれこれとイマギナチをするのです。そしてそのイマギナチオの不確かさは私たち自身の本性を表現しています。楽観的な人はホームランを打つだろうと期待し、悲観的な人は三振するのではと恐れるのです。彼の打率が2割8分と知っていても、そのデータから彼が私たちジャイアンツ・ファンの期待に応えるかどうかは当てにはなりません。逆に、データはファンを失望させる可能性も高いのです。データは打つか打てないかの二者択一ではなく、打つ可能性は何%ある、という極めて不確かな数字を提供するだけなのですから。データは1割打者なのにホームランを打つ可能性も持っているのです。だからゲームは面白いのですね。
イマギナチに反して、第二種および第三種の認識は必然的に真である、とスピノザは主張します。しかし、ゲームの面白さはこの不確かさにあるのです。第三種の認識「直観知」は瞬時にホームランか三振かを私たちに教えてくれるでしょうが、それではプロ野球のだいご味、面白さは生じません。岡本選手が試合をひっくり返してわがジャイアンツが勝利するなら、その夜はプロ野球ニュースやYouTubeで繰り返し見るのです。
 
プロ野球を20倍楽しむために
 プロ野球、そしてスポーツ全般の観戦が面白いのは「疑惑(不確かさ)」が根底にあるからという結論になりました。スピノザはイマギナチオを虚偽の源泉と追及しながら、「ないものをあるものとして想像する際に実際に存在していないものを受け入れるのであれば、(精神はイマギナチオを)自己の本性の欠点とは認めず、かえって長所と認めたことであろう」(第二部定理一七備考)と想像の楽しさも肯定しています。そのよい例として、白洲正子著『明恵上人』にこんな話が載っています。数学者の岡潔氏と世界に禅を広めた鈴木大拙氏の対談のエピソードです。岡先生は禅について興味をおもちだったそうで、ここぞとばかり、矢継早に大拙先生に質問したそうです。質問に一つ一つ答えておられた大拙先生は、いつの間にか、眠ってしまわれ、その態度に岡先生は「これこそ真の禅である」、「無言の中にその真髄を見せて戴いた」といたく感心されというのです。後日、その記事を読んだ大拙先生は憤慨して「事実とは違う。私は岡先生の質問に一々答える余裕がなく、あきらめて、目をつぶって黙ってしまった。決して眠ってはいない」と否定されたといいます。鰯の頭も信心からといいますように、事実とは異なっていようと、誤解(=イマギナチオ)はときに人を感動させるものなのです。
 となると、絶対王者の勝負は面白くないのではないかという疑念が起こります。我がジャイアンツは過去に9連覇を達成しました。しかしその偉業はギリギリのラインで達成したから面白かったのです。ジャイアンツとは対照的にプロボクシングの井上選手はまだ一度も負けたことのない絶対王者です。なのになぜ私たちは彼の試合に興奮するのでしょうか。その理由は、ひょっとすると負けるかもしれないという疑惑が私たちの心に生じるから、だと思うのです。勝ち続ければ勝ち続けるほど疑惑も膨らみます。
令和6年5月の井上vsネリ戦はすごかったですね。1ラウンドで井上選手がネリの左フックでダウンしたから疑惑は倍の2乗になりました。東京ドームは負けるかもしれないという恐怖に包まれ、そして、テレビの前の私たちは「エッ、井上選手が倒される」と恐怖におののいたのです。負けるかもしれない。ダウンした井上選手はレフリーのカウントを片膝を立てて聞いています。そして8で立ち上がってファイティングポーズを取りました。その姿は私たちの恐怖を払しょくしました。
なぜ絶対王者の井上選手の試合が面白いのか。それは、彼は常に当時の最高の相手としか試合をやらないからです。常にやばい選手と戦い続けるからです。勝つと分かっている試合は、たとえ勝ったとしても、つまらないものです。頂点を極める二人が戦ってこそ不確かさは大きくイマギナチオの領域が拡大され、私たちは精いっぱい想像をたくましくさせるのです。
 希望と恐怖のハラハラを生むのはイマギナチオが原因です。イマギナチオを少なくすると、恐怖や絶望や落胆に陥ることはありませんが、それと同様に、希望や安堵や歓喜も訪れません。希望や恐怖は不確かさに比例します。ということは、不確かさが少ないと試合は味気なくなるのです。
 プロ野球を20倍楽しむためには、勝つか負けるかの不確かさが大きければ大きいほど良いわけです。ですから、負けが込むと失望が大きくなって「また負けるだろう」とイマギナチを縮小させてしまって楽しめなくなるのです。
私たちは分からないことに耐える精神をそれほど多く持ち合わせていません。分からないことがあるとすぐになぜだろうと原因を知りたがります。テレビの解説者が贔屓チームの拙攻の原因を説明すると、それも完全にはイマギナチオを消滅させるわけではないのですが、私たちは「そうだったのか」と納得するのです。解説者の説明は間違っているかもしれないのに安心するのです。スピノザも感情に引きずられている受動人は「嘘に納得する」と言っています。
ゲームは不確かさであればあるほど、私たちはハラハラして熱中するのです。プロ野球を20倍楽しむ方法とは、不確かさを大きくすることです。つまり、テレビ観戦では解説者の情報をシャットアウトして、球場のざわめきだけを流して生ビールを片手に感染する方がいいのです。球場で観戦するのがテレビ観戦よりも数倍も楽しいのは、この情報が少ないのも無関係ではないでしょう。純粋に己のイマギナチオに浸るというか。あるいは、私たちのイマギナチオを大きくするアナウンサーと解説者のコンビがいるといいでしょうね。かつての新日本プロレスの実況アナウンサー古館一郎はそうでしたね。彼の発する言葉で私たちプロレスファンはイマギナチオを倍加させていました。それがテレビ解説者とアナウンサーの力になるのでしょう。またテレビ観戦でイマギナチオを大きくする工夫の一つとして推薦できるのは、気の合った仲間と一緒に見るのも面白いでしょうね。イマギナチオにイマギナチオで応戦するのでカオス状態になって不確かさは倍加するでしょうから。
今年も大いにイマギナチオしてプロ野球を楽しみましょう!遊びが楽しいのも、現実と空想の間にイマギナチオがあるからなのです。イマギナチオが多ければ多いほど遊びも楽しくなるのですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?