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第8走者 岩永洋一「皿うどん、何かける?」

 10年程前のことになります。当時私は東京に住んでおりました。昼食を友人と取ることになり、見つけた九州料理のお店に入りました。私の目に留まったのは皿うどんでした。私は迷わず皿うどんを注文し料理の到着を待ちます。しかし、待ちに待った皿うどんにはソースが付いていなかったのです。私は店員さんにソースをお願いしたのですが、店員さんは怪訝そうな顔をしていました。私は皿うどんにソースがついてこないこと、店員さんが私の言うことを分かっていないらしいことに腹を立てていました。
 皿うどんにソースをかけるのは当たり前じゃないですか? 小さい頃皿うどんを出前で注文したら、茶色い小さい瓶にソースが入って届いたものです。変質を防ぐために遮光性のある栄養剤の小瓶を使っていたのだと思いますが、当時の私には謎の入れ物でしたし、中のソースも秘密めいて見えました。おそらく一気にどばっと出ないためだったのだと思いますが、親がソースを割り箸に伝わせて皿うどんにかけてくれました。不器用な自分には親のように割り箸にソースを伝わせることができず、この謎の小瓶のソースと割り箸を伝わせるかけ方は、美味しくなる魔法だと思っていました。思い出補正かもしれませんが、大変美味しかった思い出があります。
 ぷんすか腹を立てている私に、一緒にいた関東地方出身の友人が、「こっちでは皿うどんに酢をかけるんだよ」と教えてくれました。「え、そうなの?」と目をまん丸くしながら、よく考えたらあのちゃんぽん皿うどんの全国チェーン店のテーブルには皿うどんのソースの他にも酢がおいてあったことを思い出しました。昔からこの酢は何のためにあるんだろうと思っていました。多分餃子の酢醤油を作るために置いてあるんだろう、くらいにしか思っていませんでした。餃子のタレは別にあるのですが・・・。

 さて、本題に入りたいと思います。今回私がテーマにしたいのは皿うどんの美味しい食べ方ではなく、皿うどんにソースなのか酢なのか、そこにも表れている「多様性」についてです。多様性について語る中で前走者である杉本先生から渡されたバトン、つまり「エヴァンゲリオン」「没個性状態・統一意志」ということに触れてみたいと思います。
 多様性diversityは「ある集団の中に異なる特徴、特性を持つ人がともに存在する」ということです。かつては「一致可能なものに反すること、矛盾、対立、不一致」といった否定的な意味もあったようです。多様性の反対語は画一性で、その意味は「変化や特色がなく、すべてが同じような感じであること。一つの枠にはめ込むさま」です。既にここで「没個性状態・統一意志」は画一性を表すことが明白ですね。「エヴァンゲリオン」はあとで触れましょう。
 私の子供の頃を振り返ると、多様性が認められていない時代だった気がします。ランドセルも男の子は黒、女の子は赤と色が決まっていました。どことは言いませんが、当時弱かった野球球団の帽子をかぶっていたらいじめられました。みんながある一つの球団を応援する、そんな文化だった気がします。おしゃれも聖子ちゃんカット、もう少し時代が経つと皆吉田栄作に憧れてサラサラの髪にしてケミカルウォッシュのジーンズ、バブルの頃は肩パット入りのジャケット、女性はワンレン、とみんな同じような格好でした。それがおしゃれでしたし、それと違う格好は「ダサい」と言われていました。画一性の時代だったのでしょう。
 比較すると現在は、ランドセルは多くの色がありますし、野球のチームもどこを応援していてもいじめられることはありません。アイドルも大人数のチームが沢山あります。その一人一人を「あのユーチューバーの子可愛い」とか「あの目の奥に星が輝いてる、宝石みたいな名前の子いいなぁ」だったり、「10秒で泣ける天才子役が推し」と皆多様に応援できるわけです。仮面ライダーだって昭和は1シリーズに1人、いても2人でしたが、平成以降は多くのライダーが登場するようになります。2002年放送の「仮面ライダー龍騎」には13人もの仮面ライダーが登場しました。これらは経済成長に伴う購買力の増大の結果ともいえるかもしれません。おしゃれも今はそれぞれに好きな格好を、個性を楽しんでいます。テレビのチャンネルも番組もたくさんあります。まさに世は大多様性時代!
 ただ多様性はいいことばかりではないでしょう。例えば体育祭などクラスが団結する必要のあるイベントがあったとします。そこで放課後にみんな集まって作戦を練ろうという時に、「塾だ」「バイトだ」「部活だ」「デートだ」「遊びだ」とバラバラの意見を述べてまとまらなければ、そのクラスは良い結果を残せないのは当然のことでしょう。良い結果を残すためには、その目標に向かって皆が多様性を捨てて一致団結して協力しなければなりません。つまり多様性は集団の凝集力が弱まり、集団自体の力が弱くなることと言えます。
極端な例かもしれませんが、集団や国が危機的状況にある場合、多様性などと言っていられず、集団や国が生き延びるために思考を統一する必要があるでしょう。このことは受け継いだバトンの「エヴァンゲリオン」に繋がります。「新世紀エヴァンゲリオン」、書きすぎるとネタバレになる恐れもあるので、少しだけ触れます。大災害セカンドインパクトによって人口の半数が失われた世界に、追い打ちをかけるように「使徒」と呼ばれる謎の敵が次々と襲来します。その「使徒」を撃退するために主人公たちは「エヴァンゲリオン」という巨大ロボットのような汎用人型決戦兵器に乗って戦うというストーリーです。「NERV」という組織がエヴァンゲリオンを使って戦うわけですが、主人公碇シンジはエヴァンゲリオンのパイロットで14歳、彼の父親の碇ゲンドウがNERVの最高司令官という配置です。シンジは反抗期、その他多くの事情で父親であるゲンドウと衝突しますが、最終的にはエヴァンゲリオンのパイロットを自分の使命として戦いますし、NERVのメンバーも「使徒を倒すため」という目的で一致団結します。これが大災害セカンドインパクトと使徒襲来という絶滅の危機にさらされた人類が、一人の指導者の下一致団結して強くなる「没個性状態・統一意志」であり、画一性の話となるでしょう。本当はもっと一人一人の細かい心性が描かれていたり、より深い宗教の絡んだ話でもあったり、多様なテーマが盛り込まれている話で、単純に画一性の話だけではないのでご興味のある方は実際に見てみることをお勧めいたします。

 さて、ここで多様性と画一性の話に戻り、前回同様精神分析家の知恵を援用したいと思います。本日援用するのは、ウィルフレッド=ビオン(1897-1979)です。ビオンは英国の精神分析家で現在の精神分析に多大な影響を与えていますが、本日援用するのはその中でも集団に関しての考え方です。ビオンは第二次世界大戦中に戦争で傷ついた軍人集団の治療に当たったことなどから集団について考えた精神分析家です。彼は基底想定(Basic Assumption)という概念を提唱しました。
 人が集まる時は何かしらの目的があります。例えば上の体育祭の例では「体育祭で良い結果を出すため」が目的になります。しかしじゃあクラスが集まってこの目的のために真剣に話し合うかというとどうでしょうか? 私の経験では、たいてい「リーダーにお任せ」になるでしょう。このような「リーダーにお任せ」の心理を「依存グループの基底想定」とビオンは名付けました。また別な場合は、クラスの中や外の誰かに問題をなすりつけ「あいつらがダメだからうまくいかないんだ」と人を攻撃することに心血を注ぐようになるかもしれません。この「問題をなすりつけて攻撃」の心理を「闘争・逃避グループの基底想定」とビオンは定義しました。またクラスの中に公認のカップルのようなものがあれば、「彼らが希望を生み出してくれるだろう」と憧れ期待する心理になるかもしれません。この「期待する心理」を「つがいグループの基底想定」とビオンは呼びました。これら3つの基底想定は「体育祭で良い結果を出すため」に集まったはずが、その集団が違う方向に動いてしまう、その動きの方向性といえます。そしてこの動きはそもそもの目的達成より原始的で、集団心理の基底に想定されるものとして定義されています。これが基底想定です。私にはこの基底想定の存在は自分の体験として十分に了解できるものです。
例えばコロナ禍の時にニュースでも話題になったマスク警察、電凸(子供にワクチンを接種させようとする自治体に多くの人が電話して自治体の機能をパンクさせたこと)などは、「マスクをするべきだ」「ワクチンを打つのはおかしい」という多様な考え方の一つが、闘争・逃避グループの基底想定に乗せられて強く働き、自分の考えが正しいと他の考え方を暴力的に排除しようとした一例でしょう。もちろんそこにはコロナ感染の危険を避けるため、ワクチンの重篤な悪影響を避けるため、という皆の健康を守るためという正当な根拠があると言えます。ですが、あのコロナ禍の危機的・混乱した状況では多様性は画一性に道を譲り、他の考えを激しく攻撃したということです。そして攻撃的になる思考の多くは、周囲に認められていないと感じるがゆえに、自身の考えの生存をかけて攻撃しているように思います。最初の皿うどんの話に戻っても、皿うどんにソースが付いていなかった時、私は自分の価値観を認められてないと感じ、傷つき、腹を立てました。
だからこそ皆が皆の価値観を認めよう、それが多様性なのだと思います。多様性は新しい考えや文化の萌芽が無数に存在し、今後多くの実りに繋がる希望の状態といえます。しかし、繰り返しになりますが、ストレスがかかれば相手を攻撃・排除する基底想定集団の動きになりやすい脆いものでもあります。多様性と画一性はこのように行ったり来たりをするようです。多様性を受け入れることは難しいと心に止めつつ、でもその受け入れができるようになればいいなぁ、きっとそこから新しい何かが生まれるのだろうなぁと思う今日この頃、その思いをしたためてみました。
あ、でも、皿うどんにはソースが一番美味しいと思いますよ(笑)。皿うどんに始まり皿うどんに終わる。そんなエッセイを書いて、次の走者に割り箸、ではなかった、バトンを渡したいと思います。


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