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事実の仮の選択と仮の解釈

『歴史とは何か』著者 E.H.カー、第一章-歴史家と事実-について、自分なりに気になった部分をまとめていく。

E.H.カーより以前の歴史家には二つの潮流があり、彼はそれらを批判しつつ、自分の立場を明確にしようと試みている。

一つ目として史料批判を中心とした実証主義が挙げられている。有名な論者としてはドイツのランケ(1795年-1886年)だろう。
二つ目のとしては客観的事実を認めない解釈主義を挙げている。歴史は歴史家が作ると言った個人の解釈に重点を置く。
これら二つの理論に対して、E.H.カーは以下のようにまとめている。

歴史を事実の客観的編纂と考え、解釈に対する事実の無条件的優越性を説く理論と歴史とは歴史上の事実を明らかにし、これを解釈の過程を通じて征服する歴史家の心の主観的産物であると考える。

E.H.カーが自身の立場としては、歴史家は事実の仮の選択と仮の解釈で出発するものとしている。
また歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である、とも述べている。

まず私が気になるポイントとしては、歴史家という個人と客観的な事実というものの間に相互作用があり、かつそれが不断の過程であるーという点だ。
私の解釈としては、相互作用とは歴史家の解釈、意味付けと社会的な諸条件によって発生した現象がお互いに干渉しているということ、ということだろうか。


歴史家が特定の社会的現象を選択、取り上げなければ、その現象はーたとえ実際は起こったとしてもー観測されなかったことになる。逆に客観的事実、社会的現象は歴史家を特的の環境に制約するということになる。
ヘロドトス(紀元前485年頃 - 紀元前420年頃)やトゥキディデス(紀元前460年頃 - 紀元前395年)とユヴァル・ノア・ハラリの時代では明らかに社会的環境、諸条件が異なっている。人権という概念がなかった時代とある時代とでは歴史家の過去、現在に対する認識は異ならざるを得ない

以上のことから私の理解では、歴史家という個人と客観的事実には相互作用が働く、ということになる。繰り返しにはなるが、それらは完全に独立して存在することはできない。
だからこそ、現在と過去の対話をしなければならないのだろうか。




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