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「メンやば本かじり」八本脚の蝶編

※今回はセンシティブな内容が含まれています(残虐的、自傷行為)。
 苦手な方はページを閉じてください。



 メンタルが弱っているとき、とある書籍に書かれていた言葉を思い出す。

「仕事も結婚も子育てもしたし、もう人間として生まれた責任はほぼ終わったような気がする。」

 この一節が私の小さな脳内で膨張し、みっちりと埋め尽くして内側を破り裂こうとする。

 私は何一つ人間として生まれた責任は果たせていない。

 わかっている。わかっているけど、どうしたらいいのだ。

 そして私は躍起になって言い訳をはじめる。

 そりゃあ才能と知識を兼ね備え、恵まれた容姿を持つ人はそりゃ責任を果たすのは楽勝だろうよ。

 彼女と私では、持って生まれたものがあまりにも違うのだ。

 不良品は「普通、、の人が通る正しい人生」のレーンからピンッと弾かれ、正常な「人間」というパッケージには入れてもらえなかったのだ。

 私だって、才能と恵まれた容姿があればきっと愛してくれる人がいて幸せで、人生なんて楽勝だったろうに──。

 いや。

 嘘だ。

 そんなことは思わない。

 才能、知識、美貌、そして高いコミュニケーション能力、これらすべてを持っている人でも、人生が怖いと思う人もいるのだ。

 思慮深く、繊細で、それゆえに真摯にあらゆることを受け止めようとして、恐怖と苦悩に苛まれる人もいる。

 そう思えたのは、二階堂奥歯さんによる『八本脚の蝶』に出会ったから。

『八本脚の蝶』は小説ではない。彼女の日記だ。

 そして、二階堂奥歯さんは、作家ではなく編集者だ。私は、『八本脚の蝶』という書籍の中の彼女しか知らない。なので、彼女のことをここに記すために、本書に収録されている言葉を借りることにする。

 実際に彼女と会って会話をした作家で翻訳家の西崎憲先生から見た、二階堂奥歯さん。

着物ならいざ知らず、あれほど抑制の効いた色調の浴衣というのは若く美しくなければ似合わないものなのかもしれない。(…)人並優れた容姿を備えた女性と待ち合わせするというのは、確かに自分の生涯においてあまりなかったことである。
(…)わたしは眼の前の若い女性が尋常ではない読書量と知性を持った人間であることをしだいに理解していった。

『八本脚の蝶』(河出文庫)二階堂奥歯著

 美しく、聡明で穂村弘さんや東雅夫さんなど著名な方々とも親しかったようだ。コミュニケーション能力がかなり高いことがうかがえる。

 哲くんという恋人もおり、愛してくれる両親、そして妹と弟。彼女は家族を愛し、家族から愛されていると書いていた。

 この部分だけ見ると完璧な人生なのに、彼女は生きることを恐れていた。

もういや。朝。こないで。
許して。許して。許して。
朝が怖い朝が怖い朝が怖い朝が怖い朝が怖い朝が怖い。
どうか眠っているあいだに私が死にますように。
でももう私知っているの。つよい愛や恐怖に耐えられずに人間の胸が破れたりはしないって。

同上

 つよい愛も彼女にとっては耐えられないものだったのだろう。つよい愛につよい愛以上で返すことができない自分に耐えられなかったのか。

 彼女は人からどう見られるかを過剰に気にしていたようだ。

 奥歯さんは、美容やファッションに強いこだわりを持ち、芸術を愛し、そして何より知を愛していた人だから。

今現在のデータ(すぐ変わる)。
二階堂奥歯 二〇代前半 女性 オイリードライスキン
イエローベース/ブルーベースは判別出来ず
彩度が高い 色白
悩みはニキビ はまっていることは美白
化粧品でかぶれることあり
クレンジング・フィディカコスメ オイルクレンジング
洗顔・ロゼット洗顔パスタ普通肌用
*なぜか荒性肌用よりも合う
洗顔・一日おき夜にうぐいすのふん
*大変よい! でもみんな嫌がる。しかし、美容のために少女の生き血を搾り取るよりはずっと罪がないと思う。「つるつる」どころか「とぅるんとぅるん」という感じの肌になる。

同上

 これだけ読めば美容に疎い私でもすぐに、彼女が美への執着心がつよいことがわかる。

 もちろんファッションも。

とりあえずヴィヴィアン・タムで「童子桃源郷ニ遊ブ図」といった趣の過剰にオリエンタルなプリントスカートを買う。五日からセールだけど、「除外品ですよ」と店員さん言ったし。信じよう。信じたい。信じさせて。

同上

コスメ買いに行ってグッチの前を通りかかったら、シンプルで細身の黒いドレスがショーウィンドーに飾られていた。(…)たまに、こうして非日常的な服を試着してしまう。私の月収より高いワンピースとか、年収より高いコートとか。
買おうと思って着ているわけではないんだけど、絶対買わないぞと思って着ているわけでもなく、ただ、ああ、この素敵な服を着たいと思って、着てしまう。

同上

 私はグッチの前を通って素敵なドレスがあっても、自分が着たいとは微塵も思わない。自分に似合わないことを誰よりも理解している。でもきっと、奥歯さんのように素敵な人だったなら、似合ってしまうことがわかって、そして周囲から「ぜったい似合うよ」と言われることもわかってしまって、そして似合う自分で居続けなければ、となってしまうのだろう。
(ちなみに私は、先日久しぶりにワンピースを購入したのだが、お値段はなんと八百円)

 さらに奥歯さんは、哲学にも造詣が深く、古代の哲学者たちはもちろん、ウィトゲンシュタイン、ローティ、永井均や中島義道の話も出てくる。

 これだけでもうお腹いっぱいになるくらい彼女の素晴らしさで詰まっているが、奥歯さんの中には想像を絶する書籍が詰まっているのだ。

 澁澤龍彦、山尾悠子、オールディス、ブラッドベリ、ブローティガン、ホーガン、ボルヘス、エンデ、古川日出男、矢川澄子そしてサドなどなど──とてもじゃないが、書ききれない。彼女が日記にあげた(しかもたった一日分でさえ)書籍のタイトルを書くのを諦めたほどだ。

 彼女は完璧そのものじゃないか。なのに、なぜ生きるのが怖かったのか。

 それは彼女の幼い頃の体験から何となく感じられる。

小学一年生の時、『はだしのゲン』を読んで一番ショックだったのは次のようなシーンだった。
ものすごい光と衝撃の後、女の子の前に、焼け爛れて皮や肉が剥げてぐちゃぐちゃになった生き物が現れて、「助けて」と言う。それに対して女の子は「あんたみたいなお化けしらない!」と言って逃げる。でも、それは女の子のお母さんだった。
小学一年生の私はそんなのは嫌だと思った。
私の大切な人が変わり果てた姿で苦しんでいるときに、気持ち悪いと思ったり、お化け扱いをして助けることができないのは嫌だ。
だったらどうすればいい。
見慣れればいいのだ。普通の人は大怪我や血まみれの姿を怖がったり気持ち悪がったりするけれど、お医者さんは平気で手術をする。それは慣れているからだ。

同上

 とてもじゃないが、私は小学一年生でこんなことを考えられない。

 それどころか、十代後半のとき、車通りの少ない路上で寝ている猫を見つけ、「危ないな」と追い払おうと近づいたら一瞬で轢かれていたことがわかる状態で、私は突然おそろしくなって、泣きながら恐る恐る傍へと移動させるのが精一杯だった。

 私と二階堂奥歯さんとでは、他者に対する姿勢があまりにも違いすぎる。

 彼女は透徹した真面目な心で、わずかなブレも許さずに、世界を受け止めようとしていたのではないだろうか。

私は愛しています。私は愛しています。あなたを、あなただけをひたすらに想わずにはいられません。私のすべての存在を、あなたに捧げます。私の日々に、私の思いに、私の行いに意義があるのなら、それは全てあなたがいるからです。
でも、あなたが誰なのか、私にはわからないのです。あなたは人ではないかもしれません。書物かも、秘密かも、言葉かも、記憶かも、景色かもしれません。
私はあなたを探すことを何度もあきらめようとしたけれど、その度にあきらめ切れずまた目を覚まします。あなたを求めつづけることを、断念せずにいられますように。

同上

 

誰かの手をかりて二階堂奥歯を抜け出した私はその場を越えて旅立つ。一人きりで。行ったきりになってしまいたいけれど、それは相手に迷惑がかかる。だから、いつも帰ってくる。
帰ってくる、いつも。
帰ってきたくない。

同上

「居ろ」
って言ってもらった。
私が、この世界に、生きて、いろ、って言ってもらった。
「生きていていいんだよ」にはすりぬける隙間があって、生きていてもいいがそれは特別生きていたほうがよいというわけではなく、死んでも構わないという風にも受け取れる。少なくとも私はそう受け取ってしまう。
とにかく私にとって自分の存在価値はないのだ。

同上

  「居ろ」という言葉をもらったが、生きる恐怖を決して手放さなかった。そして彼女は家族にこんな言葉を残す。 

どうか、私のために、幸せになってください。お父さんとお母さんと華子と康太が幸せでいることが私の幸せなの。絶対に自分を責めないで、私のために、どうか、お願いだから、自分を責めないで。しあわせになってください。

同上

 もし、あなたが今生きることがつらくて、苦しんでいて、自分の存在価値がわからないとしても、彼女の言葉に共感できる心があるなら、それは他者を受け入れる大きな器があるということだ。だから、あなたは価値がある人なのだ。

 もし、夭逝した彼女を惜しいと思えたなら、あなたは人を愛せる心を持っている人だ。愛という言葉が重いなら、人を知る力がある、くらいでいいと思う。でも、それってすごいことだ。

 もし、そうだ奥歯さんの結果は当然だ、もしくは受け入れられないと思えたなら、あなたには納得できる、あるい拒絶するエネルギーがあるということだ。その力を何かに活かせなんてことはいわない。力がある、だってそれだけで十分すごいことだから。

 私からするとすべてを持っていたといえる二階堂奥歯さんに、私の言葉は無意味だ。なぜなら、あれほど多くの哲学者や素晴らしい文学の言葉を知っている彼女に、無知な人間の言葉ほど無意味で不愉快なものはないだろう。

 当然ながら、このnoteを読んでくれている人は私より遥かに多くのものを持っている。

 でも。

 奥歯さんの日記にこんな文章があった。

ぬいぐるみ。世界認識。人形愛。主体と世界の存在を担うぬいぐるみ。世界への違和感。最近そんなことを考えている。
ぬいぐるみ小説、それはかわいらしいもの、愛らしいもの、優しいもの、害のないもの、安全なものと考えれがちだ。愛と成長の物語だと考えられがちだ。(…)ぬいぐるみ自身は優しい愛らしいものだ、しかし、ぬいぐるみの意味づけはそのような一面的なものではない。
(とくに大人になっても)ぬいぐるみを愛し、ぬいぐるみに人格を感じ、ぬいぐるみを心の支えにする人間がいる。そのような人間にとってぬいぐるみは救いであり砦であり安らぎである。(…)ぬいぐるみへの愛。ぎりぎりの、祈りのような、閉ざされた、理解されがたい、愛。人形愛といえば理解されるであろうそのような愛は、しかし対象がぬいぐるみであるときはなかなか理解されることがない。

同上

 彼女がまだ読んでいない書籍の中に、そのなかなか理解されることがない愛を、理解できそうな言葉が見られる。小説ではないが。

 それは赤坂憲雄氏による『性食考』(岩波書店)だ。

 レヴィ=ストロースの言葉を引き、『聴耳草子』にある「オシラ神」の話を例にあげ、ぬいぐるみの神話学について語っている。

 だからどうした、そんなことは全部知っている、と奥歯さんに思われるかもしれない。

 どうだったんだろう。

 私はもう少し、この世界で考えたい。

 考えるために、また明日も本を読みたい。


■書籍データ
『八本脚の蝶』(河出文庫)二階堂奥歯著
 難易度★★★★★ 読むためにはかなりの心構えが必要だ。

 二十代でこの世を去った編集者である二階堂奥歯さんの日記。膨大な読書量と知識量、そして恵まれた容姿に、美を愛する心。なぜ、と言いたくなるが、簡単に結論付けせず、もっと知識を増やすべきだと思うようにしている。


 

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