吾輩はいい人である。|マラソン大会のススメ

「たなくらさん、走るんですか」すごいですね。
僕がハーフマラソンに参加していると知って、10人のうちほぼ10人がそう言ってくれる。そして話はそこで終わる。自分のエクササイズ経験を話してくれるのは、50人に2人程度、みんな身体を動かしていないんだなぁとつくづく思う。

かく云う自分も、走ることが心の底から好きだというわけではない。ハーフマラソン大会に参加したいのだ。開催日が晴れて風がない日であればなお良い。

マラソン大会の楽しさを、僕なりに話そう。

第一に思い浮かぶのは、地域の陸連主催の競走会で給水ポイントで応援してくれる小中学生たちの姿だ。陸上部に所属しているというだけで大人たちに駆り出され、無給でサポートしてくれている。恐らく。

僕が給水ポイントで紙コップを受け取ろうとする時、敢えてグニャグニャを選ぶ。手を目一杯伸ばして何度も差し出しているのに受け取られずにいるばかりでなく、持ち手の指に力が入った瞬間に、凹んでしまい、指の感触で徐々に湿り気を感じているコップを探して受け取る。

そして忘れてはならない儀礼がある。
ありがとう!
声高らかに、目線を合わせるか合わせないかギリギリの、ありがとう。

ランナーに言葉をかけることに逡巡する子たちがいる。周りの積極的な同級生に気圧されて、それでも一生懸命声を出しコップを持つ手を伸ばしてくれる。
そんな子を瞬時に探して、その子からコップを受け取ろうとする。キミだよ、キミのコップを受け取るよ。一瞬のアイコンタクト。ありがとう!

僕が迷った時はだめだ。
受け取る時に発する言葉から気合いが感じられない。
あ〜りがとっとっと。
せっかくのチャンスが台無しだ。もしかしたら、あの子が短時間のうちに懸命に作り上げた前向きな気持ちに泥を塗ったのではないか。そんな気持ちにさえなる。

テレビで放送されるマラソンの給水場面でランナーが自ら自分のボトルを手にする瞬間、それは僕にとっては味気ない。そもそも彼らは自分と向き合って自分のペースで戦っているのだから、僕がハーフマラソンで経験するような差し出す側と受け取る側の緊張感はない。
沿道の大歓声の中を走るランナーと共通点があるとすれば、僕ら市民ランナーには溌剌とした自嘲気味なサポーターがついているのだ。

そんな無給の給水ボランティアより、もっと声がけをしなければならない子たちがいる。
その子たちは、声をかけられることもなく、伏し目がちにただただランナーが通り過ぎるのを待っている。1km、2kmあたりの子はさっさと役目を終わらせて、スタート地点に向かってだらだら歩きながら、今日の役目は終わった感を後ろ姿に漂わせる。折り返し地点の前後の担当は大変だ。ハーフマラソンなら早ければスタート30分後からその役目は始まり、最後のランナーが走り抜けるまで、ずうっと○kmの立て札を支え続けるのだ。そして恐らく役目を終えたらスタート地点まで帰ってこなければならない。そう、彼らは距離表示の立て札を持って佇んでいる。
自立させるなり、杭打ちして立てておけばいいのに、大人の無神経な事情に従って拷問のようにぶら下がるようにして棒を支えている。アフリカの先住民族がちょうど同じくらいの槍を手に立っている姿とは対照的だ。アフリカの彼らは狩人であり戦士だと聞いたことがある。それが代々伝えられてきた決まり事だとしてもその姿にプライドの片鱗を感じてしまう。立て札を持つ彼らの胸は、アフリカの彼らの胸ほど反り返ってはいないのだ。

彼らには、ありがとう。おせわさま。と声がけをする。しかし、彼らは決して微笑みを返さない。競走会の中でその直径50cmの世界だけは切り取られて分断されているのではないかとさえ感じる。
「オレ、マラソンたいかいできょりひょうじもってたってたんだよね。アレがきっかけでりくじょうぶやめたんだよ。」
最悪だ。僕が参加する競走会のせいで、将来日本を代表するアスリートを失っているかもしれない。

「おせわさま。って言ってくれたオヤジがいたんだよ。のろのろはしってるのにおせわさまだって。わけわかんないよなぁ。」
彼の人格形成には影響を与えているだろう。そう思うことにしている。

マラソン大会はさまざまな人に支えられている。
そして参加する僕は少しだけいい人のフリをする。

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