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オミクロン株は研究室から漏れたのか?

今回、「SARS-CoV-2オミクロン株は研究室から漏れたものなのか?」という言説について、少し触れておきたいと思います。

この言説の科学的根拠としてよく提示されるのが、「オミクロン株のスパイクタンパク質はマウスのACE2受容体に強く結合する」ことを示した以下の論文です。

J Genet Genomics. 2021 Dec;48(12):1111-1121. doi: 10.1016/j.jgg.2021.12.003. Epub 2021 Dec 24.
Evidence for a mouse origin of the SARS-CoV-2 Omicron variant
訳)SARS-CoV-2 オミクロン株がマウス由来であることを示す証拠
Changshuo Wei, Ke-Jia Shan, Weiguang Wang, Shuya Zhang, Qing Huan, Wenfeng Qian

https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/34954396/

この研究は、中国・北京にある中国科学院の研究者らにより行われました。

論文の内容を簡単に説明します。
中国科学院の研究者らは『分子ドッキングシミュレーション』という手法を用いて、SARS-CoV-2のスパイクタンパク質とACE2受容体の結合をコンピューター上で予測しました。

その結果、オミクロン株のスパイクタンパク質は、マウスのACE2受容体に最も強く結合することが、コンピューター上で明らかになりました。

様々な変異株のスパイクタンパク質とマウスACE2受容体の結合(Fig. 5B)

また、感染拡大以前のオミクロン株のゲノムに生じた『変異の偏り』は、ヒトのコロナウイルスよりもマウスのコロナウイルス(マウス肝炎ウイルス)と類似していることも明らかになりました。

コロナウイルスに見られる変異の偏り(Fig. 3B)

これらの結果から、中国科学院の研究者らは、「オミクロン株の祖先は、2020年半ばにヒトからマウスへと感染し、マウスでの感染拡大とともに変異を獲得して、2021年末に再びヒトに感染した」と結論付けました。

In this study, we used the molecular spectrum of mutations of the SARS-CoV-2 Omicron variant to trace its proximal host origins. We found that the molecular spectrum of pre-outbreak Omicron mutations was inconsistent with the rapid accumulation of mutations in humans but rather suggested a trajectory in which the progenitor of Omicron experienced a reverse zoonotic event from humans to mice sometime during the pandemic (most likely in mid-2020) and accumulated mutations in a mouse host for more than one year before jumping back to humans in late-2021.
訳)本研究では、SARS-CoV-2オミクロン株の変異の分子スペクトルを用いて、その近傍宿主の起源を追跡しました。その結果、アウトブレイク前のオミクロン株の変異の分子スペクトル(=変異の『偏り』)は、ヒトでの急激な変異の蓄積とは矛盾しており、オミクロン株の祖先がパンデミックのある時期(おそらく2020年半ば)に、ヒトからマウスへの逆転現象を経験し、宿主マウスで1年以上変異を蓄積して、2021年の末に再びヒトへとジャンプしたことを示唆していると分かりました。

https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1673852721003738#sec3

ここで問題となるのは、「ウイルスを保持したマウス(宿主マウス)は、どこにいたか?」ということです。

分子ドッキングシミュレーションに使われた情報(マウスACE2受容体のアミノ酸配列情報)は、一般的な実験用マウス(C57BL/6系統)に由来するものでした。

C57BL/6マウス。BLはblackの意(画像:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Black_6_mouse_eating.jpg#/media/ファイル:Black_6_mouse_eating.jpg)

C57BL/6マウスは、全ゲノムが公開された2番目の哺乳類であるため、ACE2受容体のアミノ酸配列情報がその実験用マウスに由来することに、特に疑問はないでしょう。(1番は、もちろんヒトゲノムです。)

分子ドッキングシミュレーションに使われたマウスのACE2受容体の由来が『実験用マウス』であることを殊更強調すれば、「オミクロン株は『実験用マウス』に最も効率良く感染するウイルスである」と主張することができ、オミクロン株が研究室内で作られ、研究室から漏れたものであることを示す強力な根拠となります。

しかしながら、マウス(Mouse, 学名:Mus musculus, 和名:ハツカネズミ)は、必ずしも実験用マウスとは限りません
家屋や商業施設の周辺など、どこにでもいる「家ネズミ」の仲間です。(昔の話ですが、私の実家に出たことがあります。)

ハツカネズミ(画像:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:House_mouse.jpg#/media/ファイル:House_mouse.jpg)

私は、短絡的に「マウス=実験用マウス」と決め付けるのはおかしいと思いましたし、あるいはオミクロン株研究所流出説支持者が、日本語の『マウス』という言葉の持つ印象を利用して研究室から漏れたことを強調するために、わざと「オミクロン株がマウスに最も効率良く感染するウイルスである」という言説を広めているようにも思いました。

マウス
1. ハツカネズミ。特に、実験動物化されたもの
2. コンピュータの入力装置の一つ。カーソル移動、メニュー選択などに使う。▷ ⑵は形が⑴に似るという見立てでの命名。

Google's Japanese dictionary(provided by Oxford Languages)

そして私は、分子ドッキングシミュレーションの結果は示されているものの、それを根拠に「オミクロン株がマウスに最も効率良く感染するウイルスである」と主張することに強い違和感を覚えました。
ただし、それは「論文が信用できない」とかそういう話ではありません。

私が違和感を覚えた根拠は、SARS-CoV-2の発見を報告した中国・武漢ウイルス研究所の最初の論文です。現在では、被引用回数が1万件を超えています。

Nature. 2020 Mar;579(7798):270-273. doi: 10.1038/s41586-020-2012-7. Epub 2020 Feb 3.
A pneumonia outbreak associated with a new coronavirus of probable bat origin
訳)コウモリに由来すると思われる新型コロナウイルスによる肺炎の発生について
Peng Zhou, Xing-Lou Yang, Xian-Guang Wang, ... Zheng-Li Shi(石正麗)

https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/32015507/

論文中の結果の一つについて、詳細は削除した私の記事で既に説明していましたが、こちらも簡単に説明しますと、HeLa細胞(ヒトの子宮頸癌由来の細胞。ACE2受容体を持たないため、コロナウイルスは感染しない)に、ヒトを含めた様々な動物のACE2受容体を発現させ、SARS-CoV-2(武漢株)を感染させた結果、ヒト、コウモリ、ブタ、ジャコウネコのACE2受容体ではSARS-CoV-2の感染が見られましたが、マウスのACE2受容体では感染が見られませんでした

様々な動物のACE2受容体を発現させたHeLa細胞へのSARS-CoV-2感染実験(Fig. 3)

Determination of virus infectivity in HeLa cells that expressed or did not express (untransfected) ACE2. The expression of ACE2 plasmid with S tag was detected using mouse anti-S tag monoclonal antibody. hACE2, human ACE2; bACE2, ACE2 of Rhinolophus sinicus (bat); cACE2, civet ACE2; sACE2, swine ACE2 (pig); mACE2, mouse ACE2. Green, ACE2; red, viral protein (N); blue, DAPI (nuclei). Scale bars, 10 μm.

https://www.nature.com/articles/s41586-020-2012-7/figures/3

すなわち、ヒト以外にも、コウモリ、ブタ、ジャコウネコは、SARS-CoV-2(武漢株)に感染して宿主になりえますが、マウスはそうでないことが、武漢ウイルス研究所の最初の論文で既に示されていました。
ヒトに感染するコロナウイルスとマウスに感染するコロナウイルスには、大きな隔たりがあると考えられます。

オミクロン株のスパイクタンパク質における変異の数は、これまでの株と比較して、際立って多くなっています。

オミクロン株のスパイクタンパク質には、『まずい変異』がてんこ盛り(画像:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC212PC0R21C21A2000000/)

しかしながら、私の『感覚』では、これらの変異により、オミクロン株がヒトのACE2受容体に強く結合するようになることは理解できても、マウスに最も効率良く感染するウイルスになるとは思えませんでした

デルタ株とオミクロン株のスパイクタンパク質の構造の比較(画像:https://onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/jmv.27526)

しばらくモヤモヤしたものを抱えていましたが、およそ1ヶ月後に、実際に実験用のマウスとハムスターで、オミクロン株の感染力と病原性を調べた論文が発表されました。

Nature. 2022 Mar;603(7902):687-692. doi: 10.1038/s41586-022-04441-6. Epub 2022 Jan 21 *.
SARS-CoV-2 Omicron virus causes attenuated disease in mice and hamsters
訳)SARS-CoV-2 オミクロン株は、マウスとハムスターで弱毒性の疾患を引き起こす。
Peter J Halfmann, Shun Iida, Kiyoko Iwatsuki-Horimoto, Tadashi Maemura, Maki Kiso, … Yoshihiro Kawaoka(河岡義裕)
* 2022年1月21日、米国科学雑誌「Nature」オンライン速報版で公開

https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/35062015/

実験用マウスの結果を示しますが、マウスの鼻と肺におけるオミクロン株の増殖は、ベータ株と比較して、大幅に低いことが明らかになりました。
そして、オミクロン株を感染させたマウスでは、体重減少や呼吸器症状の悪化も見られませんでした。

マウスの鼻と肺におけるオミクロン株の増殖(Fig. 1b)

したがって、この論文の著者らは、「実験用マウスでオミクロン株の感染力が弱まったという我々の結果は、(中国科学院の論文の)オミクロン株がマウス由来であるという言説を支持するものではない」と結論付けました。
分子ドッキングシミュレーションの結果と実際の感染実験の結果には、大きな乖離があったということです。

Our results showing attenuated B.1.1.529 infection in laboratory mice do not support the suggestion that B.1.1.529 has a mouse origin[4]. However, infection studies in wild mice[46] are needed to fully address this question.
訳)実験用マウスでB.1.1.529(オミクロン株)の感染力が弱まったという我々の結果は、B.1.1.529がマウス由来であるという仮説[4]を支持するものではありません。ただし、この疑問を完全に解決するためには、野生のネズミ[46]を用いた感染実験が必要です。

https://www.nature.com/articles/s41586-022-04441-6#Sec4

そして、SARS-CoV-2は、北米シカネズミ(学名:Peromyscus maniculatus)に感染することが報告されているため、問題を完全に解決するためには「オミクロン株が、(南アフリカに生息する)野生のネズミに感染するかどうかを調べる必要がある」と記載しています。

ハンタウイルスの宿主としても知られる北米シカネズミ(画像:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:DiGangi-Deermouse.jpg#/media/File:DiGangi-Deermouse.jpg)

以上をまとめると、オミクロン株を保持したマウスは、研究室内ではなく、研究室の外にいた『野ネズミ』であった可能性の方が高いことが分かりました。

南アフリカに生息する一般的な野ネズミ Apodemus sylvaticus(画像:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Apodemus_sylvaticus.JPG#/media/ファイル:Apodemus_sylvaticus.JPG)

中国科学院の論文は、SARS-CoV-2のスパイクタンパク質とACE2受容体の結合をコンピューター上で予測したもので、残念ながら、生理的条件下での感染を再現することはできませんでした。
しかしながら、その本質は、「SARS-CoV-2の持つ様々な動物種を飛び越える能力を警戒し、今後さらなる動物由来の危険なSARS-CoV-2変異株の発生を防ぐことが極めて重要である」ことを指摘したものでした。

Humans represent the largest known reservoir of SARS-CoV-2, and frequently come in contact with other animals, including livestock animals, pets, or wild animals that invade homes searching for food and shelter. Given the ability of SARS-CoV-2 to jump across various species, it appears likely that global populations will face additional animal-derived variants until the pandemic is well under control. Our study thus emphasizes the need for viral surveillance and sequencing in animals, especially those in close contact with humans. Furthermore, computational characterization of the spike RBD in animals and identification of their potentials to interact with human ACE2 will likely help to prevent future outbreaks of dangerous SARS-CoV-2 variants.
訳)SARS-CoV-2の最大の保有宿主はヒトであり、家畜や、ペット、食料や避難場所を求めて家に侵入してくる野生動物などと接触することが多いです。SARS-CoV-2が様々な生物種を飛び越えることができることを考えると、パンデミックが十分に制御されるまで、世界中の人々はさらなる動物由来の変異株に直面する可能性があると思われます。我々の研究は、動物、特にヒトと密接に接触する動物におけるウイルスの監視と配列決定の必要性を強調するものです。さらに、動物のコロナウイルスのスパイクタンパク質のRBDをコンピューター上で解析し、ヒトのACE2と相互作用する可能性を特定することは、将来的に危険なSARS-CoV-2変異株の発生を防ぐのに役立つと思われます。

https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S1673852721003738#sec3

論文に記載された文章から、中国科学院の研究者らは、オミクロン株が野生のマウス(野ネズミ)に由来する可能性を排除していないことが分かります。研究室の内と外、どちらにも傾いていません。

実は、そもそも中国科学院の論文でさえ、オミクロン株研究所流出説支持者の期待していたような内容ではなかったのです。
日本語の持つ印象から中国科学院の論文のタイトル「Evidence for a mouse origin of the SARS-CoV-2 Omicron variant」を正しく翻訳するならば、「SARS-CoV-2 オミクロン株がマウス由来であることを示す証拠」ではなく、「SARS-CoV-2 オミクロン株がネズミ由来であることを示す証拠」になるのではないでしょうか。

そして、1月21日の時点で、天秤は「研究室外」に傾きました
1月21日以降(これが一つの目安になるかと思いますが)、中国科学院の論文を根拠に加えて「オミクロン株が研究室から漏れた!」と声高に主張している人は、『知識不足』か『嘘吐き』かのどちらかです。

以上。

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※ この記事に特定の個人や団体を貶める意図はありません。
※ 文責は、全て翡翠個人にあります。
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