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不条理と反抗―カミュを繙読する

 カミュ著「シーシュポスの神話」を読んでいて、思ったことを書く。メモ帳のようなものなので、読者の参考になるかは怪しい。

 私はもともと深く考える人間ではなかった。それが文学に変えられ、今ではある程度深みのある思考ができるようになった。しかし、この本は私のキャパシティを大きく上回る難解さである。

 ではカミュの用いる基本的な単語について記述する。

 まず「不条理」…これは理屈にならぬ理屈、だったり、筋道の通らぬ論証、と解釈できる(新潮文庫:清水徹の訳注より)。これ以上の抽象的な示し方はできないだろう。例を挙げて考えてみる。社会的なルール、などがそのいい例ではないか。「異邦人」のムルソーと同様、親が死んでも悲しい顔を見せなかっただけで、冷たい人間だと勝手に判断される。親の死に対する社会の観点から見れば、人は親が死ねば悲しむものだ、という個人を軽視した慣習的価値観のもと構成されている。その社会共通の価値観というレールから外れた者は異常者であり、個人の思考というものはないがしろにされる。これは感情が理論・慣習、そして社会を形成するという例であり、「理屈にならぬ理屈」といえるだろう。個人はその共有された思考・慣習を基に、個人を社会的に価値あるものか、危険なのかと判断する材料にしている。そのほかにも、「異邦人」にてムルソーが殺人により裁判にかけられる際、事件に関係のない「社会的な正しさ」を求められることになる。検察官は先ほど紹介した親の死を悲しまなかったエピソードを法廷で公開、その「人間性(いわば社会性)」のなさを追求しムルソーを極悪人に仕立て上げた。しかも検察官らは「史上最大の極悪人」というレッテルを付けたのだ。これは法的な量刑を図るものではなく、れっきとした検察による私刑である。しかし、それがまかり通り「社会的に正しい」検察官が勝利する。ムルソーは死刑を言い渡される。理論では証明できない、感情など非理論的なものが論理としてまかり通る、これがカミュ的な「不条理」として解釈した。

 もう一つの用語として「反抗」が挙げられるだろう。先ほどの不条理を見つめる続けること、これが反抗であるとカミュは記している。見つめ続けること、それが何なのかは不条理な論証「不条理な自殺」を読めばある程度は分かるかもしれない(私には難解だったが)。簡略的に紹介するならば、不条理から目をそらさずに見つめること=不条理に立ち向かうことであると定義している。その不条理を覆すことはできない。非論理的な論理の前では人間は無力である、というカミュの考えがもとになっているのかもしれない(実際そうではないか?)。ならばこそその現実を受け入れ、不条理を受け入れて見つめることこそ、人間を考えるための第一である…と考えられる。人間の生を否定した者は、その生について論ずる資格を捨てた。そして生を理解できないということを告白した。…例えるならばこうだろうか。不条理から目をそらし自殺した者は、不条理という哲学を考える資格を放棄した。不条理を見ず、それを理解できないとして思考を棄てた…反抗は、これら不条理を受け入れつづけ、見つめ続けることによって自己の論理、はたまた哲学の論理を希求すること。真理があるかどうかは不明、しかし考えることを否定してしまえばその理解は永久に失われる…これが私なりの「反抗」への解釈である。

 正直に言って、この言葉の解釈は間違っていると思う。他人に理解できるよう言語化するにはあまりにも私の理解力が不足している。実際筆致もおぼつかなかった。まぁ、難解な本に対して敢闘した記念程度に収めておこう。

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