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作画師と呼ばれた男 〜追悼、大塚康生先生

 また一人、俺の人生に多大なる影響を与えたかたが鬼籍に入られた。

 この国のアニメーションの発展期から活躍され、ことに俺の大好きな作品たちの多くで作画監督を務められた、大塚康生先生のご逝去が本日報じられた。

 享年、89歳。大往生と言っても差し支えないかもしれないが、人生百歳時代といわれる昨今、まだまだ各方面でご活躍いただき、ちょっとしたインタビューなどでも良いので、ご尊顔を仰ぎ続けたかった。

 俺が「大塚康生」という名前を初めて意識したのは、たぶん中学時代だと思う。

 当時は夕方に俺が保育園から小学校にかけて放送されていたアニメの再放送が頻繁に行われており、そのオープニング(OP)やエンディング(ED)にやたらとそのお名前が表示されていた。
 折しも現代に続くところのアニメや特撮といったいわゆるサブカルチャーが注目されるようになる前夜で、俺も年齢的にそういうところに目が行くような頃だった。

 ことに俺が注目したのが『ルパン三世』(TV1stシリーズ、通称「旧作ルパン」)での、
「作画監督 大塚康生」
 というテロップ。

 それ以外はその一二年後に創刊が相次いだアニメ誌などであらためて知ることになるのだが、『ムーミン』(第1期)、『侍ジャイアンツ』、そして俺が高校に入ってから放送された『未来少年コナン』(宮﨑駿さんの事実上の初監督作品)も作画監督が大塚康生先生であるという。
 その段階で、大塚康生先生は俺にとって神になった。

 さて実は、今年2021年は上記でも触れた「ルパン三世」がテレビで放送されてから50周年になる。1971年——嘉永3年ではなく昭和46年でござる(*1)。

 なのでそれを記念して我がバー『浪漫社』でも俺もママも大好きな「旧作ルパン」と、俺が人生を変えられたところの同じく大塚康生先生が作画監督を務められた『ルパン三世 カリオストロの城』——言うまでもなく、宮﨑駿さんの映画監督デビュー作——について語るYouTube動画を近々にライブもしくは収録で公開したいと思っていた矢先の大塚先生の訃報だった。

 ルパンについては綴りだすときりがないので適当なところで止めるつもりだが、ちょっと綴らせてほしい。

〝カリ城〟公開(1979年末公開)の頃はTVとしてはいわゆる「2ndシリーズ」が国民的な大人気を博していてそれを受けて前年の映画版『ルパン三世』——通称「ルパン vs 複製人間(クローン)」(1978年末公開)——も作られたのだが、俺は2ndシリーズは大嫌いでほとんど視ず、〝クローン〟はまあまあながらも旧作ルパンとはなんかビミョーに世界観が違うはラストの『ルパン音頭』(*2)で椅子からずり落ちるはで、不満たらたらだった。

 したところが翌年の雑誌『アニメージュ』の6月号だか7月号だかを立ち読みした際に、ルパン映画の次回作は作画監督が大塚先生で、しかも旧作ルパンと同じ「青緑のジャケット」が復活すると記されていた。

 もうね、その時の俺の狂喜乱舞ぶりは今ここに魔毛狂介(*3)が現れたら、ぜひ連れてってもらい見たいぐらいだ。

 脱線が長くなったが、とまれ「俺のルパンが帰って来る!!」と歓喜し、そして大塚先生というステップとフィルタから〝カリ城〟を観ての大感動から宮﨑駿という人物を知り、現在に至るというハナシ。

 noteでもYouTubeでもあるいはTwitterでも昨今——大瀧詠一師匠を含めて——「好きなもの好きであり続ける大切さ」を語りまくっているが、大塚先生の訃報を受けて、あらためていろんなものが去来した。

 あ、ついでながら今回の記事の画像「FIAT500」(先代チンクエチェント)は、今でこそルパンの代表車とされているが、これは旧作ルパンの路線変更の際に宮﨑駿さんがそれまでのメルセデスベンツSSKから当時の大塚先生の愛車であった同車に変えたとの由。
 このあたりのハナシもまた、機会をあらためてじっくりと。

 まだまだ語り足りないものは多々あるので、YouTubeやnoteで感謝の意を表していきたいと思う。

 大塚康生先生。長らくのお仕事、お疲れ様でした。

 この記事で足りなかったことも含め、俺の成分の半分かたは、先生からもたらされたものたちで作られています。

 心からの感謝と、哀悼の意を。
 本当に、ほんとうにありがとうございました。

 安らかにお休みください。


*1)この元ネタが何か即座にお解りのかたとは、わっ、わっ、お〜友だちになりたいわぁ!!

*2)今この現在では浪漫社のお客様の影響もあって、そんなに否定したものでもない。

*3)「マモー」ではなく「魔毛狂介」なのだよやはり俺は。


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