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神社と神主について 第5章 神と遊ぶ

 神主の役割は、社会に直接役に立たないからこそ影響を与えることができ、スキマ的な役割を発揮し、言わば間接的に目立たない方法によってのみ、社会の役に立つという不思議なものだ。もし祈りの効果が、社会の中で、あたかも農作物を育てたり、工業製品を生産したり、サービス業で接客や交渉を行うように、目に見えるものと同等の価値を見出すことができるのならば、事情はかなり変わってくると思われる。スキマの効果を理解するということは、社会そのものにスキマが増えることになり、個人の生活にもスキマが増えることになり、窮屈な生活は緩和されることだろう。そのように、スキマを重視する傾向が強くなれば強くなるほどに、それぞれが神性や不可視の世界と接触する機会も増加し、その分、神主の必要性は減少する。
個人や社会が、その生活やシステムの中にスキマを確保できないほどに、神主や神社の専門性が必要となる。言わば、神社と神主は、スキマ屋ということもできるだろう。だが、もはやスキマそのものの価値が見失われ、神主の職務の中にも、スキマを見出すことが困難になっている。神主の本分を果たすことが、非常に難しくなっているのだ。
神主が自分の本分を見失い、社会もその価値を忘れることは、神主の存在意義を揺るがすということになる。(それは神主だけでなく、多くの宗教家の立場についても同じことが言える)このような事態が、本分以外のこと、スキマ以外のことの中、つまり社会的価値観の枠組みの中で、いかに自分たちの有効性を証明するのか、という歪な問題を我々に直面させてくる。
かつてスキマの価値(神聖なものに接触することの価値)を理解していた時代には、神主は世俗には触れることの少ない、それゆえに高貴なものの近くにいる存在として、一段上の立場の人たちとして扱われていたに違いない。しかし今や、その一段上の立場を証明するために、本分を以てではなく、それ以外のことで証明しなくてはならないのだから、歪な心理を発生させてしまうのだ。
例えば、神主は、品行方正で社会的に立派な人でなくてはならない、決して失敗してはいけない、というような、社会が要請する立派さを背負わされることが多くなる。そしてそれを真に受けてしまい、非常に高いプライドで身を守らなくてはならないような事態も発生するだろう。優雅な立ち振る舞いで格を高く見せようとしたり、知性で身を固めたり、美しい祭式作法こそ神主の至上の務めだと言い張ったり、神社的商売を繁盛させお金に物を言わせるようになったり、高い地位により人を支配しようとしたりなどだ。
あるいは、世俗にどんどん塗れていき、神主の本分や神社の本当の役割を忘れる中で、感情的なつながりだけを重視し、気に入られ、愛されることで、生き残りを図るというパターンもあるだろう。大切なのは絆だ、というスタンスだ。
この2つの例のやり方は、それが本分を忘れていない限り、つまり極端に走らない限りは、現代の神主にとって、ある程度、必要で有効なことになる。それらを多少身に着けることは、役には立つだろう。前に述べたように、現代の神主は、世俗に大いに塗れ、同時に世俗から離れた時間をキープすることが求められており、このような能力がある程度あることで、本分のための時間を確保することがより容易になっていくからだ。それを全く身に着けないというスタンスは、逆に問題を増加させ、悩み事を増やし、スキマを維持し、祈るという本分の時間を、余計に減少させるだろう。逆に世俗が要求するものに対して、それは私の仕事ではない、私のするべきことではないと言い張る者が、現代、神主を継続することは、ほとんど不可能だ。
社会的な価値観からくる要請を、自分なりにある程度こなしつつ、失敗もしながらそれでもそれに振り回されず、意固地にならず、神に向き合う時間をできるだけ確保するということだ。そして、それが確保されている限り、神主や神社を取り巻く状況は、悪くなっていかないものだ。神主が本当の神主であることを続けられるという状況を維持してくれることにも、神は協力してくれる。安っぽい例えになってしまうのだが、娯楽映画のスターウォーズに出てくるフォースとともに生きるジェダイのようなスタンスだ。フォースがともにある限り、事態は、少しずつ均衡に向かい、目先の問題の解決を急いでしまうほど過剰な力を求め、スキマを維持することを忘れ、均衡を破壊する立場に動いてしまう。
神もまた、地上に関心を示している、と私は考えている。神は、特定の誰かの応援をするというやり方ではなく、里全体のため、崇敬者全体のため、というふうに、全体的によくなっていくように、地上世界や社会を用いて、クリエーションしているように見える。その中で、人間から見れば、災害や事故など、不運としか見えないことがたくさん発生するが、神から見れば、それらの事象すらも、創造している物語の材料なのだろうと。我々が、それに翻弄されないためには、できるだけ神に近づくことであり、神と共振することであり、その創作活動を一緒に行うという立場に立つことだと思われる。神と一緒に遊ぶというスタンスだ。このような考え方は、信心の厚い神主の多くからは、異端で、とんでもないと思われるに違いない。神は畏れるべきもの、という考えがスタンダードだからだ。しかし、畏れている対象と、共振することはできるだろうか。その力の大きさに、畏れを感じるのは、最初は仕方がないにしても、共振が進めば進むほどに、畏れは減っていき、深い愛情へと変わっていくものだと思われる。「個」の中に閉じこもっている限り、共振はできず、それは「無関心」か「畏れ」の対象になるに違いない。
神主の仕事は、神社という大きなエネルギーセンターの中にいて、神とともに、見えざる力で里全体・崇敬者集団全体をクリエートしていく仕事と見ることができる。その細部には、安心屋さんや思い出屋さんとしての仕事もあるということだ。世俗に塗れてしまう部分は、逆手に考え、神的エネルギーを自分の身体を用いて運び、細部にまで行き渡らせることができるための取り組みだと考えればよい。言わば、本部神社からの派遣神社としての役割だ。歩く小さな神社だ。

おわりに
 諸行無常は、仏教の言葉だけれども、私は特に宗教・宗派の垣根が大切だとは思わないので、良い言葉は神道のものでなくても使うのが良いと思う。
遠い未来を考えたときに、人類が地上にいなくなる時も来るだろうし、地球ですら崩壊するときが来るのは間違いない。もちろん、この尺度は、肉体を背負い、空間と時間という法則と共に生きている我々だからこそ、「始まり」と「終末」を想像できるのであって、魂の世界にはそのような法則は通用しないのであるから、「終末論」には、それほどの意味がないとも言える。それはそれとして、肉体を持つ人間から見れば、終末はあるのだから、人間社会の物語の終焉も描かれることになる。それは同時に、神を祀る人がいなくなることであるし、我々が祀る先祖神としての神としても、地球に所属することが無くなるということでもある。魂の世界は果てしなく、人間の視点から見れば、宇宙は無限と思えるほどに広大という言い方ができる。地球を離れたとしても、我々には、別に行く先が、いくらでもある。
地上以外には、天国と地獄しかないというような見方は、恐ろしく視野が狭いように見える。肉体の制約があるうちは、地球中心にしか物事を考えられないので、そのような見立てになってしまうのだろう。
ひとたび魂を捉え、神や不可視の世界の存在との交流を行うことができるようになれば、そのような狭い世界観からも解放されるだろう。死や終末論に翻弄されない立場に立つことができるだろう。そのことが、地球で快適に過ごし、平安な社会を築くために効果を発揮すると私は信じている。肉体や物質だけが全てだという見立てが、不安を拡大し、奪い合いの社会や戦いに満ちた人生の物語を生み出してしまうように、私には見える。

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