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それで良い、その後の人生も面白いよ

 大学三年生の頃、ゼミの担当の先生が「ちょっと様子がおかしいです」と話を切り出した。
 「毎年、この時期にはほとんど皆さん就職決まっているんですが、今年は決まりません。あなたたちの時もどうなっているか」と。

 バブル崩壊が始まっていたのだ。

 それまで、何となく会社に就職して、私のことだから事務員として働くのだろうと思い込んでいたので、先生のその態度や雰囲気を見て、どうやらそのようにはならないかもしれないと思い始めた。

 私は本当はどうしたいんだろう。

***

 大学四年生の夏。色々なことをいったん休んで、アルバイトで貯めたお金でニュージャージーに一人で向かった。ニュージャージーには、中学生からの友人がいる。彼女とは中学一年生の時に知り合い、お互いが幼い頃、お互いを知らずに割と近くに住んでいたことを知った。
 ずっと連絡を取り合っていた私たちはニュージャージーで待ち合わせ、彼女はそこに私を泊めてくれて、私は一週間ほどを過ごした。

 7歳で帰国してからずっと軽い離人感に覆われていた私は、ニュージャージーで「自分の身体を動かして、自分の目で物を見ている!」という感覚に感激し、また来年来たい! 何度も来たい! という思いを強くした。それも10日とか1か月とか。そしてそのうち住みたいと。

 全然うまくいっていなかった就職活動をやめ、「就職してしっかり会社員として働いた方が良い」と何度も言っていた年上の彼に別れを告げ、デパートのケーキ屋でアルバイトしていた私は、そのままそこでパートとして働き、お金をためようと決めた。

***

 社会人一年目。
 皆さんのようなまぶしいスーツ姿に身を包み、新しい社会に飛び出て、組織の大変さ、世間の厳しさに社会の苦労を知り、頑張っているような生活ではなかったのだ。皆と比べると、ちょっと卑屈になりそうなところだけど……でも私は……とても希望に満ちてケーキを売っていました
 実家から通い、お弁当を自分で作り、一か月に使うお金をごくわずかに決め、デパート内での友情や他店の店員との交流を育むにとどまり、シフトではアルバイトの学生たちのカバーをしながら働いていた。

 23歳になる年。友人たちは例えばニュージャージーで学生。他にはホテル従業員。パン屋さん。実家の手伝い。大学院へ進学。と様々で、いわゆる会社員の事務職、営業職は、私の周りの友人では少なかった。店長も女性で、彼女は大学院へ通っていたが研究職を諦めて「とりあえずパートで生活費を稼ぐ」と言ってそこのケーキ屋で働いていた。私がいたのは、そんな環境だったのだ。
 だからそれほど引け目を感じることなく、ケーキ屋のパートを続け、つつましく楽しく希望に満ちて働いていた。
 ニュージャージーで暮らすための準備もコツコツと続けていた。

 でも。

 その後、「ウチに来て住んだら良いわよ」と言ってくれていたために頼りにしていた知り合いが突然心変わりし、私は2日間の記憶がないほど呆然と過ごした。
 いったん就職してからアメリカ留学していた兄に電話した。兄とはそれほど仲が良いわけでもなく、喋るのが目的で電話したのは、後にも先にもこの時だけ。でも、その現実をどのように受け止めれば良いのかわからなくなった私は、兄が何故どのような決意を持ってアメリカ留学をしたのか、私の考えは甘すぎたのかと相談した。
 「一番の目的が‘住むこと’であるなら、それで良いんだよ。勉強とか仕事とかより住むことなら、それを達成しに来たら良いじゃない」と言ってくれたのは、今でも恩に思っている。
 ニュージャージーの親友が「じゃあ私と一緒に暮らそうよ」と言ってくれた。
 この二人の言葉がなければ、ニュージャージー行きは実現できなかっただろう。

***

 約二年後に阪神淡路大震災が起きた。それから短い間に二度転職して、初めてスーツに身を包んで事務員でお金を稼ぎ、ニュージャージーへの資金をせっせと貯める。上司に可愛がられ、イヤなヤツからセクハラを受け、女同士のいがみあいがあり、その後、念願のニュージャージー暮らしを始める。勉強したいこともあった。親友とうまくいかなくなったり、泣いたり笑ったりしながら一緒に暮らす。夫とも出会う。恋の池にポッチャンとハマり、結婚する。札幌で住み始める。なかなか子供ができなくて葛藤がある。学生時代の友人たちと続けられなくなっちゃう。できた子供は寝ない子でかんしゃくがひどくて大変だけど、可愛くて仕方ない。今の土地へ引っ越す。田舎では、健康面で軟弱な私は疎外感に悩まされる。息子の小学校で苦労する。東日本大震災に遭う。夫の仕事が猛烈に忙しくなる。家を建てる。息子が中学入りたての頃にまた苦労する。私に新しい友達もできる。お互い傷つけあってダメになった友達もいたし、素敵な友達もできた。最近も新しい友達ができた。

 今は穏やかな暮らしだ。
 メニエールと自律神経失調は相変わらずのところへ、更年期症状が加わっているけれど、映画やnoteを楽しみ、これから少しずつまた社会と接点を持ち始めようと模索している。その時はまた社会人「一年生」として心を新たにするのだろう。

 さて。
 改めて。
  社会人一年目の私に何と言う?

 この先のこと、ほんのちょっとの不安を頭の隅に抱えながら、希望に満ちて楽しみでしょう? それで良いよ! その先の人生、それなりに色々あるけど、けっこう面白い。
 そのまま、人と比べることなく突っ走れ!!


#エッセイ  


読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。