載せた記事に、ただその人の心があるだけなのに~注釈や前置きに思う~
こんなにまで書かないと、彼女のところに苦情でも来るのだろうか。
ある記事を読みながら、もしかしたら向けられたのかもしれない心ない言葉を感じ、胸が痛んだ。文中に、読み手を気遣った注釈が度々入るのだ。
少し久しぶりに読みに行った彼女に関しては、フォローしていたけど、私と環境が違って、互いに読むのも書くのも遠慮し合いそうなので、やめてしまった。相手はどうあれ、私は意識してしまう。受け止め合いたいけど、「頑張って」受け止め合おうとしたくない。ちゃんと受け止めたいと思うのは、相応の覚悟をした上でのことで、私にはそんな覚悟ができない、と外してしまった人も少なくはない。そこまで背負わなくても線引きして寄りそえたら良いのだろう、ともわかっている。でも気質上、私にはそれができない。向き合うならしっかりと。って生真面目に思ってしまう。きっと相性もあるのだろう。そして仲間もたくさんいるようだと、安心して退く。
年齢や環境や立場の違いって、受け止め合えたら、それぞれの視点から物が見えるから、最高の仲間になれる。少しずつ築いていける相手もいる。相手によっては先に「やーめた」ってされちゃうこともあるのだけど、できれば、その違いは乗り越えたい。でもどうしても越えられない時もある。私には多々。それに気づく度、自分の度量の狭さにガッカリして申し訳なく思うのだけど。
ただそこを「頑張って」気を使いながら読んだり書いたりしていたら、感想も気を使ったものになっていき、嘘になってしまいそうになる。上滑りしていく自分の言葉がわざとらしい。彼女は受け止められただろうに、私が先にやめてしまった。
私は彼女の気質的な部分は、可愛くて好きだ。きっと会えば泣いたり笑ったりしながら話せるだろう。
度々書いているように、一度気に入ってフォローした人で「人柄がイヤだ」って感情がわいてくるのは、多くはなくて。心配になったり、どうしてるかなあと思ったりして時々のぞきに行く。
人によっては、タイムラインに載るよりも、こちらから訪れる方が、その人の更新頻度や、客観的に心の調子がわかる場合だってある。
いずれにしても、表現をし文章を読んでもらう立場なら、言葉に敏感なのは大切でもあるし気を付けたい。だけど、きっと私は傷つけている方なのだろう。割と言いたいことを言ってやりたいようにやって、ラクになっちゃっている罪深いところがある。器もちっちゃいから「たくさんの人のあらゆることを受け止めたい」願望や、「みんなと賑やかにつながりたい」気持ちで、頑張るぞ! ってフォローし、けっきょく「ダメだった」と挫折を繰り返す。本当に繰り返すからその度に人を傷つける。
だけど、私は個人的に誰かを意図的に攻撃したり、アナタの記事は好きではないとか特定して攻撃している意識はない。
「こういう記事が好き!」「私はこういう書き方をしたい」って書いたりはするけど、ネガティブな方面で誰か特定の方を思い浮かべていることはない。「こういうのは苦手なので読まない」「読めない」はあるけど、単にそのジャンルが苦手なだけで、ネガティブな感情を抱いた特定の記事に関しては、あえて書いていない。どうしても思いが強くなってトゲが出てしまうから。
意図的に誰かを傷つけようとしたものでなければ、誰もが好きに書いて良いはずで、どんな風に書こうと自由だ。
私は好きな方でも読まない記事だってある。表現は自由。読むのも自由。ただ「読めない」が何回も続くと、相手に申し訳なさがすごく積もってしまって、フォローしていられない。なんだそれ。と思われるかもしれないけど、これもまた性分らしい。多分、その私の心境の理解に苦しむだろうから、その時に相手を傷つけているだろうと思っている。
ただ自分の精神状態を健全に保っていたいだけで。どなたかが「ご自身の気持ちを大切にしたのでしょう」と書いて下さっていて救われた。わがままだけど、ここでもうしばらく続けていたいから私はその方法を選択する。
noteは比較的、安全な場だけど、他のSNSとつなげている人の中には、心ない言葉を直接ぶつけられるのだろう。細かな指摘をされるのだろう。
「こんな風になりたい」と書いたら「こんな風になるのが本当に良いことなのか」とか、「こんな風になると、こんなリスクがあるのをアナタは知っているのか」とか、「そんな風になりたいなんて、私は怒りを感じる」とか。そんなの、相手と自分の境界線がわからなくなっているだけなのに。
その人が、こんな風になりたい、こうしたい、で良いのに。想像してわかった上でそう書いている場合だってあるだろうし、想像していなかったとしても何かあれば本人がそのうち知る。
こっちにもあっちにも気が付いているけど、でもこんな風に書かせていただく、と配慮して書かなければいけないなんて、傷ついている彼女が、何故それ以上、人の目を気にしなければならないのか。
自由に素直に思いを書きっぱなしてはいけないなんて、残念だ。彼女の注釈だけではない。私を含め、多くの人が「前置き」を書かなければならない気持ちになる。気が付いているよ、知っているよ、でもこう書かせてね、なんて先回りした言葉を目にすると、指摘してくる人を思って疲れる。
楽しいことや嬉しいことを表現するのだって、自慢だと思われるだろうなどと考えていたら、書いてられない。好きな人のことでも書けば「自分でわかってるよ、ノロケだよ!」って断らないといけないのか。私は面倒だから書かないけど、家族のことを書く時、自慢だと受け取る人もいるかもなあと思う。だけど、それまでの苦労をその文の中にすべて書かなければならないだろうか。注釈や前置きが必要だろうか。夫や私の、それまで育った家庭や環境。それなりの傷つきや苦しみや悲しみ。子供との苦労。その記事すべてに詰め込んだ上で、「こんなことがあって家族で笑った」って書かなければいけないとしたら、バカバカしい。
窮屈に喜怒哀楽が表現されていたら、その本質ではなく、そちらの気遣いが気になって伝わりきらなくなる。
私は以前「苦しかった時にも笑えることがあって、笑える中にも苦しい部分はある。そういう文章を書きたい」と書いた。でも書きたい主張によっては、それが邪魔になる時もあるだろうし、笑ってられない場合もある。
笑える話も、悲しみや痛みが伝われば笑いきれなくなる。当たり前だけど、苦しいだけの時もあるし、ただただ笑える時だってある。そこに余計な感情や言葉や文章は書かない方が良い場合だって多々ある。
さらに、両方の感情が入り混じっていたとしても、人それぞれのスタイルがあるから、「私が」そう書きたいだけで、人の記事も「私が」それが好きなだけで、皆にそれを求めてはいない。
多分、誹謗中傷する人は、誹謗中傷「したい」人で、論破したい人は、自分を強く思いたい人なんだってわかっているけど。
だけど。彼女が細やかに注釈を付けている記事は、それまでの傷を思っていたたまれなかった。
傷ついたことや辛い気持ち、苦しかったことを素直に書けるのがnoteの良いところのはず。
嬉しいことや楽しかったこと、笑えることを素直に書けるのがnoteの良いところはず。
提案したいやり方を記事にしたり、表現したい感情を、詩や言葉にこめたり、ちょっと心動かされた、分かち合いたいなと写真をとったり、練習や見てもらいたいものを絵や漫画に描いたり。
note人口がどんなに増えようとも、そういう場であってほしい。
彼女が今後も葛藤を、細かに指摘される気遣いなどなく、以前のように、自由に伸び伸び表現できるようになると良いな。
なんだかこの文章自体が、壮大な注釈に思えてきた。
最後に、SNSで傷ついた人へ。
私が昨年SNSで苦しんでいた頃に、友人が私の気持ちをおそらく知らないで偶然、贈ってくれた曲。気づいていたかもしれないけど。メロディーに乗せた歌詞に、泣いちゃう。
ブランディ・カーライルの「ザ・ジョーク」(日本語字幕付き)
グラミー賞、三部門獲っています。是非一度。