見出し画像

あのう……こんな私でも良いんでしょうか

 プロポーズを受けたわけではありません。
 あとプロポーズを受けても、申し訳ありません、わわわたし、既婚者ですので。愛する夫がおりますので。

 「こんな私でも良いの?」は、……ハッキリ書きますが、noteでの話ですね。

 ここしばらく、いや本当はずっとだったんですね。
 もう今回、私の本性と本心をぶちまけてしまおうと思っています。何故このタイミングかと言えば、ここ数週間くらい、久しぶりに自分の内面の奥底まで潜って向き合ってきたからです。
 たくさんたくさん嫌いになりました。自分を。
 そしてその分を取り返すように、たくさんたくさん自分を愛おしく思えそうなところまで戻って来ました。

***

 きっかけは、皆さんのmeet upやnote酒場などの話題です。
 それに対して、私は恐怖心が出てしまうのです。いや、まだ読むのやめないで!! 水を差したいわけでもなければ、水を差す結果になるとは思えません。だって全然否定的に思っていませんから。この気持ちに至るまでに、「自分」を改めて見つめた話です。

***

 他のnoterさんに、「私は参加できないダメ人間だ!」って気持ちをぶつけて、たぶんちょっとイヤな気分にさせたと思います。彼女は積極的に参加して、得るものがあったとしっかり言えるところもあったので。穏やかに流して下さいました。心から申し訳なかったです。謝っても、その気持ちがちゃんと伝わったか不安なくらい申し訳ないです。
 いや、しつこいですが、全然否定する気持ちはありません。参加者の満足度が高い、と読んだことがあります。多くの皆さんの楽しみだと聞いています。きっと得るものがある。みんな参加した人たちは、温かい集まりだった、楽しかった、素敵だったとほっこりして帰ってきている。ツイッターのトレンドにも出たとか。得るものは、その後の文章に表れるだろうし、人間関係として豊かに潤うはずです。参加した人たちが、ほんわかした思いを抱えて帰ってきているのが読んでいてわかるので、そんなまばゆいばかりにキラキラと目がくらむようなものではなく、心からああ良かったなあと安らぐような気分になるのでしょう。お互いの存在や出会いに感謝できるような場なのだと、想像ですが思っています。素敵なはずです。

 でも私は怖くて「行かない」。「行けない」。そしてそんな自分が、ものすごくダメに思える。

 この辺りをとてもグルグルしていました。
 ダメに思えるけど、本当は参加したいの?
 何度も自分に聞きました。
 
 ……いやあ……そうじゃないなあ。

 本当は羨ましい?

 ……いやあ……それもないなあ。

 じゃあ何故そんなに気になるの?
 
 これを何度も何度も自問しまして。

 わかったんです。
 自分のことがダメなヤツって思うのは、自分がダメなヤツって思われちゃうんじゃないか、って「自分で」思っているからなのです。
 
 これがわかって、まずちょっと気持ちがラクになりました。本当にダメなヤツだとしても、そう思うのは相手の気持ちや考えです。私が自分でその心配をしなくて良いはずなんです。

 ただ、note酒場が300人とかいうのを見て圧倒されるのもあります。それはつまり、300人も参加する人がいて、きっと「自分の近くであったら参加したい」「子供が手を離れたら参加したい」と思っている人を含めると、もっといるわけですね。そういう人たちを前に、自分の「そういうのには参加しない側」をわざわざ公表することは、頭のおかしい人にしか思われないのではないかと思いまして。それだけの人数が「自分をダメなヤツ」と思うんじゃないか(そんなに知られていないのは重々承知です)。「自分はどうやら皆と違う」という意識から、もう世界でたった一人なのではないか。といった気分になったのです。

 みんなと会いたくはないの? と聞かれたら、「会いたいです!」と言います。人なつこいと書いたところだし、会いたい気持ちはあります。でも私はそういう集まりには行かない「タイプ」なんです。それを「何故参加しないの?」と聞かれたとしたら、とても困ります。恐怖心が上回るのが私の性質なんです。もうそうとしか言えないのです。
 皆さんは行くことに対して、「会いたいから!」「楽しそうだから!」「得るものがあるから!」「世界が広がるから!」たくさん理由を挙げられるのだと思いますが……。私が行かないことに対しては「えっ。怖いから」だけなんです。おかしいのかもしれません。異端なのかもしれません。そしてnote側からも、参加する側からも、何この人、面倒くさい、理解できないと嫌われてしまうかもしれません。


 人それぞれで良いというのは、とても大切な考え方だと思います。だけど、皆が同じ機運で盛り上がっている時には、水を差しそうで言いにくい。だから黙っていようと思うと、参加しない人、できない人はただ静かにこらえてこの時間、日々をやり過ごすしかないのかしらと苦しくなってきました。水を差すようなこと言うくらいなら黙っておいた方が良いのかもしれません。でも私はそういう気持ちで言っているのではないんです。
 
 
 人の個性を円で例えましょう。すると、その円から人間関係をもこもこと全体的に広げていける人たちがいるんですね。きっと多いと思います。そのきっかけが、ビクビクだとしても、すごく頑張って勇気を持ってだとしても、何とかギリギリだとしても、「できる」んですね。それは多少でこぼこしていたとしてもそのうちキレイな層として丸くまとまっていきます。
 で、私のようなタイプは、その円から直線的に一つ、一つ、外側に向けていく。人とそういうつながりの仕方をしていく。だから、なかなか層として重ならない。いびつな形。キレイな層を作っている人たちに苦笑いを向けるだけで、基本的に黙っているしかない。消極的で人生損していると思われているんだろうな、と思っちゃうわけです。

 ところが、こんなんじゃあダメだ、と思っている私に対して、「私は参加しないけど、別に構いませんが?」って人もいるんですね。
 そんな人が羨ましくて、何故私はここまで「自分がダメだ」と思ってしまうのかとも考えました。

 それは、参加できる側の人たちが正しい、と私が思っていたわけです。
 参加する側の人たちは「正しい」のではなく、「楽しい」、と思えないかと自分に問いかけました。それでさらに、うんと気がラクになりました。
 
 きっと皆さん楽しいのだと言い聞かせていたけれど、この時ようやく、ああそうだ、正しいんじゃなく楽しいんだと心から理解したのです。noteやっている限りは参加するのが正しいと思ってしまっていました。

 そこで、自分の楽しいことを考えてみました。

 色々あるけれど、特に大好きな映画を待ち受ける自分が「○月△日! もうすぐだ、いよいよ行くぞ!!」という気持ち。そこに集まる人たちと共有する感動。そうか、私にもそんなものがあるではないか、と気づきました。

 そして集まりに参加しない私が心地よく暮らしているように、参加することは、皆さんにとってきっとワクワク楽しいのだ。正しいなんてきっと思っていない。やっと理解できました。

 
 「参加しませんが、なにか?」タイプの人は、どこ吹く風で、そういったことに関しては完全にマイペースに暮らしているので、どうしてそんな風になれるのか、それも考えました。
 その方をもっと知りたくて、彼女のフォローしている人たちをのぞくことにしました。そこで受けた衝撃があります。
 彼女とのやり取りで、私はすっかりその世界を知ったつもりになっていました。
 ところが、彼女のフォローしている方たちを見ると、もうほとんど知らない人たちでした。全員とはいかなかったけれど、ちょこちょことアイコンをクリックしてその人たちのnoteを見てみました。
 すると、私の知らない世界が広がっていました。

 私は性格上、多くの人をフォローできないでいます。全力で読んで全力で気持ちを受け止めようとしてしまうからのようです。きっと優しい方、面白い方、素敵な方、と思っても、noteやツイッターでフォローできない人たちがたくさんいます。そんな自分に対してのダメ出しもずっと心の片隅にありました。「私ってこんな人間なの」「仕方ないでしょ」とはなかなか開き直れない。だって「みんなやり取りを楽しんでいるから」「みんな平気だから」「みんな頑張っているから」私も楽しまなくちゃいけない。私も平気にならなくちゃいけない。私も頑張らなくちゃいけない。
 でもできない。
 それをどうにかわかってもらいたくて、何度も「フォローできないんです。ごめんなさい」と、たくさんの言い訳を書いてきました。

 わかってもらえたような気がしても、やっぱり不安で、似たような特性、気質の方でも楽しめていたり、平気そうだったりすると、私には頑張りが足りないんだろう。頑張れないダメな人間と思ってしまうのです。

 ところがそうやって別のnoterさんのフォローを見てみると、世界はもっと違ったのです。「こんなじゃダメだ」の「こんな」って何だと思うくらい、広かった。固定観念にとらわれていたと知ったと同時に、もっと違う世界で楽しみ、その世界を大事にしている人たちがいるとわかったのです。

 それにちょっとした衝撃を覚え、あまり共通の知り合いがいなさそうな、他のnoterさんのフォローものぞいてみました。
 やっぱり私のフォローしている方がほとんどいなくて、そこにはその方の世界が広がっていました。
 私の思っているnoteの世界って、ものすごく小さかったんだ。と気づきました。
 それぞれの世界で、それぞれ楽しんでいて、それで良いじゃないかと。

 ようやく落ち着いた頃、ツイッターを整理していました。

 noteより、実はツイッターに疲れていると気付きまして。
 整理しながら自分の付けてきたイイネをずっと読み返していました。それが、すごく良かったんです。

 含蓄ある言葉がたくさんあって。「そのままで良いんだよ」「周りと比較して暮らしているなんてもったいないよ」そういった言葉が、あらゆる表現の仕方で、温かな熱を持って伝えられている。それに対してイイネを付けている過去の私。もう亡くなった方のツイートもありました。多くのツイートがとても優しくて胸がいっぱいになりました。

 そんなためになるような言葉ばかりじゃなくても、楽しくて笑っちゃったり、面白いやり取りが混じっているのも、また温かく、微笑ましかったりして癒されました。私は自分をわざわざ閉じ込めてその中でただ自分はダメだとしか思ってこなかった。なんてもったいない。本当は優しい世界に囲まれていたんだと実感しました。
 
 こうやって自分にダメ出しを続けていた作業から解放されつつあります。

 解放され始めると、数々の励ましを素直に受け入れられていなかった自分にも気づきました。自分を否定し続けていると、せっかくの温かい言葉まで「こんなダメな私なのに?」と疑ってしまいます。それは相手に対してもとても失礼なことだと思うのです。

 皆さんがこれを読んで、イヤな気分がしたとしたら、申し訳なく思います。皆さんに、面倒くさい難しい人だと思われても仕方ないです。実際そうだと思います。でもそんな自分がダメだと思わないようにいたいです。私が自分のそういった部分を大切に思えなかったら、思考が「ダメなヤツ」に戻ってしまう。もう疲れてしまいました。自分をダメなヤツと思いたくないです。
 
 きっと、私はずっと参加できません。恐怖心が勝っちゃって、参加したいと思えないでしょう。その殻を破る?? そういう問題ではなさそうですから。そういった楽しみは皆さんにおまかせします。本当に楽しんでほしい。心からそう思います。私に言われなくても、とわかっていても、「参加しない」を選ぶ私の、「楽しんできてほしいなー」って気持ちはわかってもらいたいんです。

 でも皆さんさえ良ければの話。いつか全国行脚して会いに行きたい。これは本気で思っています。何年後の話か……すごく先になるでしょうが、そのためだけに動き回れないようであれば、少しずつでも。フォローして下さっている方々、スキして下さる方々、イヤな気持ちのはずがありません。私には、それぞれの方たちとどこか俯瞰してその距離感をはかって感じるようでないと疲弊してしまうのです。それは日々のnoteでのやり取りの積み重ねできっとお互いに感じることができてくるでしょう。一度に会うのはどうしても恐怖でストレスなのです。

 ……こんな私でもまだ受け入れてもらえるのでしょうか。これでダメなら私は執着を手放さなくてはいけないのでしょう。それはもう仕方のない抗えないことなのだと思っています。ただひたすら……自分へのダメ出しには疲れました。


#エッセイ #note #恐怖 #楽しんでほしい

読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。