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あの子はカエルが大好きだったなあ

 以前、近所に住んでいた友人の子供が、カエル大好きだった。

 様々な種類のカエルに詳しくて、大きいものから小さいものまで、そして鮮やかな模様の毒のあるカエルまで、その特徴や習性など説明してくれた。カエルの皮で作った財布も持っていて、まあまあ原形が残されているその姿を見て「うおおう! すごいねえ」と、衝撃を受けたものだった。リアルタイプのカエルが好きなんだと思っていたら、ぬいるぐみとかキャラクターも気に入っていた。私の夫が、出張先で可愛いカエルグッズを買ってきてプレゼントすると喜んでくれた。
 私の息子は、生き物にあまり興味を示さなかったので、息子より幾つか年下のその男の子が、ちょっと羨ましくさえあった。

 「○○君(彼の名前)は、将来何になりたいの?」と聞くと「カエルの研究する人!」とニコニコして答えていた。そんなに詳しいんだものね、なれると良いねと言いながら、可愛いなと思っていた。

 ところがある日、その子の母親である私の友人が顔を曇らせて言った。
 「主人が、○○(子供の名前)のカエルの話を聞いてくれないの。そんなものじゃなくて役に立つ仕事しろって言う。」

 なんなのそれ。カエルは「そんなもの」なのか。「役に立つ」って何なのよ。役に立たない仕事なんてあるの?
 
 つい感情的になった私は、彼女に矢継ぎ早に質問してしまった。困惑した表情の彼女に、あっシマッタと黙った。
 彼女のダンナさんはモラハラの気があった。当時はまだハッキリわからなかったけれど、理不尽で疑問に思う言動が多いなとは気になっていた。
 そういう人なんだと思ってそれ以上口出ししないようにしたけれど、奥さんは私の友人だったし、その男の子もまた私の可愛がっている子だった。好奇心を持って好きなカエルについて一生懸命話す子に、「つまらないから聞かない」って何なのと悲しくなった。
 「カエル」って、そりゃ直接的に人の生活に役に立たないかもしれないけれど、むしろ役に立たない仕事があるのか教えてほしい。
 

 幸野つみさんが、自分の名前の由来について書いていた。

 その中で感じたのは、「目の前の人を直接的に、身体的に救うことは、作家になることによって手放すかもしれない」と案じているのかなあということだった。書かれているのはそれだけではないのだけど、私にはそこが印象に強く残った。


 本を読んで救われた人はどのくらいいるだろう。いや、noteだって、ただその人の文章を読んで。なんならある一言のコメントを読んで、気持ちが救われることだってある。直接言葉を交わさなくても。それでも画面のこちら側で、元気づけられている時だってある。その人の考えを知ってホッとしたり、この人の存在がありがたいなあと思ったり。

 幸野つみさんで言えば、私は札幌で暮らした日々を思い起こし、景色を思い出し、大好きな食べ物や料理を「次行った時にまた食べよう!」と楽しみにし、「水曜どうでしょう」を楽しんでいた毎週を思い出す。それだけでも「楽しかった」が分かち合えて心がウキウキ楽しい気分になる。

 いや、ご当人だってそんなことわかっている上で、普段のお仕事からそういう風に実感するのだろうとは思うけれど。

 だけど。

 その人の一生で、何をするかなんて自由だ。あの子がもし将来、カエルの研究をすることで救われる人だっているだろう。人だけじゃなくても、大きなことで言えばもしかしたら結果的に地球を救うことにだってなるかもしれない。小さなことから言えば、その研究をすることで知り合った人たちが、なんならカエルと関係ないことで救われるかもしれない。でもそれはカエルの研究をしていたからこそ知り合った人たちで……。

 自分が何の役に立つのかと心震えている人はきっといるだろう。何も動かないと何も起こらない。
 だから話す。書く。人が発する言葉で、救われる人はたくさんいる。

 自分よりも、目に見えて貢献している人は表に現れているだけ。わかりやすい直接的なことばかりが役に立つことじゃない。自分より頑張っているのではないかと思う人がいるなら、その人は尊敬の対象となり得るだろう。だけど、その人になる必要はない。

 自分がやりたいこと、なりたい姿は、自分の自由だ。自分の人生なのだから。思い描いたものを、できる範囲内でも良いから目指し、少しずつ歩いていけば良い。

 幸野つみさんの文章を読みながら、つみさんの本意とは違うかもしれないけれど、ふとカエルの研究者になりたいと言ってお父さんに否定されたその子を思い出した。彼はどうしているかな。お父さんの人生でなく、どうか自分の人生を堂々と歩んでくれますように。
 

#エッセイ #人生  

読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。