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導入に照れちゃう時がある

 「だってこんなの、気取ってるじゃない」会話から入る文章について自意識過剰な気持ちをぶつけてみた。
 私の話を聞く夫のむくんだ顔は、ビールを飲み過ぎたと物語っている。そんな描写から入る文章もまた、その先を読むかどうかの力量が問われてしまう。

 ああカッコ良い感じの導入が最近、恥ずかしくなっちゃって。できるだけ意識しないように始めるけど、照れた感じが出ちゃう。
 だって技術が語られ過ぎてきた。
 でも、ある程度「読んでみようか」って思っていただかないと、最初から飛ばされちゃいそうだし。

 私が小学校四年生の頃。日記を提出させる男の先生は、ちょっと大人っぽい女子をえこひいきするため、私は大嫌いだった。もちろん子供っぽい私はえこひいきされない側だ。
 気持ちが悪い。
 って本気で思っていた。
 でもある日の日記の感想とは別に、「かわせみさんは、自信を持ってもっと発言したら良いと思いますよ。こんなにいっぱい書けるんだもの」みたいに書いてくれた。そのたった一言は、クラスでの発言につながったわけじゃなかったけど、「書きたい欲」のリミッターを外してくれた。
 先生は、作文の書き方のちょっとしたコツを授業中に話していた。「書き出しは、ちょっと注意を引くものが良いよ。会話からとかね」などとも教えてくれた。

 そこに意識して書いてきていたけど、noteでたくさんの文が並び、特に自分がフォローしているわけでもないところに行った時、書き出しが気になるようになってしまった。
 フォローしている方たちだと、馴染みがあるからお喋りしてくれているような気分で、特に意識せず、わざとらしさも特に感じないし自然に読んでいくのに。

 普段読まない人たちの「読んでもらいたい」気持ちが見えてくると、もうこっぱずかしくて仕方ないのだ。
 それがダメと言っているわけじゃなくて。むしろ注意を引いたり、その人が努力したりしているわけで、私だって知らない人から見たらその部類かもしれない。

 でもさ、勝手にわき上がる恥ずかしい気持ちをもて余す時もあるのだ。


 お笑い芸人でも最近「恥ずかしいって思ってるいるんじゃないだろうか?」って人たちがいる。 
 コントだと舞台がパッと明くなって、すぐに演技に入れる。でも漫才。中でも漫才コント。漫才だから、小道具を使わないのだけど、「僕ね、そろそろ彼女がほしいんですよ」みたいに言った時、「練習しとこ」とか「ちょっとやってみよか」とか言って、突然その演技に入る。前から「漫才コント、最近流行ってるなあ」とか「急にごっこ遊びが始まるみたいで自然ではないよなあ」とか思っていた。だって普段、どんなに仲の良い友達相手でも「あれ、やってみたいと思ってるのよ」「ちょっと練習しとこか」ってならない。

 笑い飯を知ってしばらくした時、「だいたいわかったから、俺にもやらせてくれや」ってあからさまに、ごっこ遊びをしますよーアピールしていて、笑った。
 そしてサンドウィッチマンも「興奮するのは~~な時だね」「間違いないね」とか言って始めている。
 こんな導入! って笑った。
 そのうち和牛の導入も面白いと知った。漫才の序盤で、川西が「(コントを。或いは女性役を)やれ、ゆーてんのか」とか言ったり、水田が「やれー」って何度も言いながら勝手に始めたりする。川西が「もう始まってるやん」みたいに言って、観客に「水田が勝手にコントやり始めたよ~」ってアピールする。
 和牛は漫才の導入「がんばりましょ~、ゆーてやってますけども」にすら難癖つけて、「えっ。最初に‘がんばりましょ~’……ってちゃんと言うたん?」の押し問答だけの漫才を作ってしまった。

 導入に照れちゃう人って、きっといるんだよなー。
 急にその世界に入れようとするから、演じている側の「キャッチーじゃない?」って「ドヤ」の気持ちが見えちゃうと、照れて仕方ない。

 皆さん、どの程度意識して書いておられるのだろう。

#エッセイ #文章 #導入 #照れる #漫才コント


読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。