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大切にしたい思い、過去のこと、最近のこと

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親子関係や友達とのことじゃなくても、自分の中で大切にして残しておきたい思いがあります
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自分の感想や文に自信がない時でも、思い出す先生のおかげで

 読書感想文を書くコツなんかを近年、ネットで多く見かけるようになった。子供の頃知っていれば、もう少し宿題がラクだったかもなあ。  文を書くのは幼い頃から好きでも、感想文を書くのは好きじゃなかった。  作文にしたって、ほめられた経験はほとんどない。賞とかも獲ったことがない。一度だけ文集に、ギリギリ佳作として感想文を載せられた時も、その良さがどうしてもわからなかった。わかっていたらその後に生かせてきたはずだもの。  今も同じ。大好きで楽しい。あんまりほめられない。いくつかいただい

なにか変われただろうか

 13年が経った。  この13年でどのくらい復興したと言えるのだろうか。  能登の人たちを励ませるほどにはなったのかな。 *  揺れたあの時。  カウンターの下に潜りこみ、コーヒーポットや周りの物がガチャンガチャンと横で落ちていくのが見えた。阪神大震災を思い出しながら、長い揺れに手の震えが止まらなくて、携帯の番号をなかなか正確に打てなかった。  心細くてアパートの扉を開けると駐車場から声が聞こえて、私も下りて行った。皆で言葉を交わしながら時折、「あっまた……」と静かに立ち

日本語を教える成り行きになって

 初めてスリランカ人に会ったのは、高校生の頃。兄の通っていた大学で友達ができたから招待したいと言う。一緒に写真におさまったけど、どんな話をしたか兄からどんな人だと聞かされたかまったく覚えていない。  ただちょっと珍しかった。兄が彼の料理を食べて、あまりの刺激の強さに直後に「ちょっと眠らせて」と横になった話は聞いた。  その次の記憶は、夫が仕事で面倒を見たスリランカ人が、母国に帰る時。ご両親がわざわざやってきて私たち家族3人をご馳走に招待してくださった。  私は当時もうすでに

小澤征爾さんといっしょに思い出される先生

 中学受験の時、面接は5人ずつ教室に入り、面接官は各教室に4人ほど先生がいた。  進学塾に通っているとハードで体調を崩してしまったので、算数と国語だけを近くの学習塾で学び、理科と社会は母とがんばった。面接の練習も。  母は勉強の教え方が厳しくて、良い先生とは言いがたかったし、恐怖心から私もズルしてしまったこともあった(もちろんこっぴどく叱られた)。でも面接の練習は楽しくて、「今日も面接の練習したい」と何度もお願いしたものだった。  特に何かを注意されることもなく、部屋への入

その人は何が好きかって知ってる?

 個性ってのは何なのだろうね。  先月、義母を見送るための一連の打ち合わせや儀式をしながら、義母を知らないと改めて思った。  どんなこと言われたとか、あんなことされて困ったとか、そんなことが多く思い出され、どんな人だったのかがわからない。何かの拍子に急に義母との風景を思い出して感傷的になる。でもそこから義母の人柄へはなかなかたどりつけない。  夫はどう感じているのだろう。胸にせまるような思い出が押しよせてこないのか、押しよせてこないようにしているのか、義母に似たのかドライ。そ

雑談は、きっと聞けていれば良いし、お互い様なのだ

 急に家をあけなくてはいけなくなって、そのため近所の方にお願いすることがあった。  帰ってからそのお礼にと、行き先だった札幌のささやかなお土産を持っていった。今までもこれからもお互い様なので、相手も自分も負担にならない程度の物。  持っていくだけなら良いけど、こういう時のやり取りが50歳超えてなお苦手だ。話すのが嫌いなんじゃない。下手だなと、後で自分がイヤになっちゃう。気質上、大がつくほどの反省会がぬかりなさすぎて、そんな自分にもウンザリする。  今回は急なお願いだった

突然のお別れだった

 週末は夫が仕事に出ていたので、職場から連絡があった。  休み時間に、わざわざ電話? と不思議に思う。  「弟から連絡あって、僕の母さんが亡くなったんだって」  えっ。  えええ……。  こういう時、自分の声がほんの数秒遅れで再度耳に響いてくるのはなんなのだろう。そのままその瞬間のすべてを忘れなくなる。話してくれた夫の声。私の声。見える景色。私の体勢。  弱っているとは聞いていた。  でもどこかにあずけて見てもらうほど困っているのではなかった。義弟からもそう聞いた。

あの日を今年も忘れない

 屋根瓦は重いから本当は変えた方が良い。  耐震性を考えた住宅にしなければならない。  家具の向きに気をつける。  寝る時の頭の上には物を置かない。  枕元には避難グッズを準備しておく。  どんな避難グッズが必要か考えては補充する。  避難先はどこか確認しておく。  たとえ全壊してすべてを失うとしても、自分がどのパターンの被災者となるかはわからないから、食料品は5日分以上を備蓄する。  外では。  道路が割れて車がハマることがある。  液状化現象というものがある。  荷物を

言葉を交わすのは心を通わせる喜びだと、改めて気づく年末年始

 落ち込んでしまう気分を奮い立たせるように、歩いてみたりする。  雪が降っていない日。霧が凍っているのか空気がキラキラしていた。  光る空気を写したかったけど、全然写らない。  空を見上げたらその青さにに驚く。  なんて澄んで深い青。  葉を落とした黒い枝は、新しい芽を待っている。  年末年始に思う。  リビングで並んでいても、それぞれの部屋でのんびりしていても。気配を感じながら過ごすのは、それだけが楽しみなわけではないんだ。  時々同じ時間を過ごして、言葉を交わせるか

もうすぐ年が変わるけど、先に12月のふり返り

 あまり聴いたことがない鳥の鳴き声がするので、調べたらアオゲラだったみたい。  そう言えば、違う場所だけどちょっと前に夫がアオゲラ見たと言っていた。この地域にいるのね。  家から車で少し走った場所では、「なにあれ!」と驚き調べると、カササギだった。名前は知っている。姿も写真で見たことある。でも一致していなかった。実際に見ると忘れないだろう。  ああこんな時、絵が描けたらと思う。  カラスくらいの大きさだけど、さらに尾が長い。背中や頭も黒でお腹が白く、くっきりした青が翼に入って

幼少期の夏のキャンプを「シアター・キャンプ」で思い出す

 幼少期、アメリカニュージャージーでの夏休みは3か月ほどはあった。  それだけ休みが続くと親も大変だからか、夏キャンプが盛ん。兄も私も日々「デイキャンプ」と呼ばれる日帰りのキャンプに通い、ある年齢から兄は何週間かの泊まりキャンプになった。  母がそこから送られてくる絵ハガキを楽しみにしていた気持ちは、自分が母親になってみるとよくわかる。子供が泊まりがけでどこか行くって、すごーく心配だ。元気にやっているかな。楽しんでいると良いな。よく眠れているかな。大丈夫かな。  母の心配とは

すべてわかり合えなくても

 これからのことなんて、当たり前だけど誰にもわからない。つい不安を感じてしまうのは、きっとずっとだし、でも四六時中、不安を抱えてもいられない。  細く長く考え続けることは増えている気もするし、生き方や考え方については折り合いをつけられるようにもなっていく。  年齢重ねているだけだから自信があるわけでもないし、こうした方が良いなんて一つも言えないのにね。  若い彼らの曲を聴いていると、世の中への歯がゆさや、自分との葛藤がこめられていた。愛や恋でも行ったり来たり。  若いころっ

秋が好きだし少し元気になってきた

 あーサツマイモのラテを頼んじゃった。飲んじゃった。甘かったな。ほんのりサツマイモが香ってめっちゃ美味しかった。「ほっこりOIMOラテ」って言うんですって。  今は調べたら「和栗モンブランラテ」って出ている。わあ飲みたいなあ。甘そうだなあ。  ……。  飲みたいなあ。  note書き始めてから、秋が好きな人が意外と多いと知ってうれしかった。アナタも? へえそうなんだ。私も大好き。秋が好きな人って多いのかも。  今のように暑すぎる夏になる前から、夏はあまり好きじゃなかっ

10月はいっぱい書きたい!

 きっと皆にとって夏休みなんてだいぶ前の感覚よね。もう10月だし。  私にとっての夏休みは9月だったので、昨日のフェス参加で、夏休み終わったなあとダウン着つつしみじみ思う奇妙な状況。  息子が8月の終わりに帰省して、夫も急きょ夏休みを取ったので、9月に小旅行をした。三人だと車なら安上がりだからとがんばって運転(ほぼ夫が)。ごく近い所も一泊。  あとどうしてもの理由あって遠方で一か所。夫と二人。そのことを少し書きたいのだけど、まだ書けていない。  当然、散財となってしまった。