【暮らし】一人称矯正遍歴


物心ついたとき、一人称は自分の名前だった。


名前に”ちゃん”をつけて、「ぼたんちゃんはね」という始まり出しで、意見を述べていた。
おそらく周りの大人が自分のことをそう呼んでいたからだと思う。


それからしばらく小学校1、2年生までは自分の名前を呼んでいた気がするが、ある時から周囲で「うち」が流行り始める。(91年生前後なら分かるはず)

なんだか急に自分の名前を呼んでいるのが恥ずかしくなって慌てて一人称を「うち」へと切り替えた。
言わば「うち」への矯正作業。

歯列矯正ごとく、使い始めてすぐは、矯正器具に引っ張られている歯が痛く、むずがゆい。
「うち」という矯正器具に自分がはめられ、引っ張られ、違和感を感じながら口にしていた。
使い方があっているかどうかヒヤヒヤしていたた。

しかし「うち」矯正器具は思いのほか、馴染んだようで、高校卒業までわたしのアイデンティティとともにあった。
「うち」全盛期で、周りの友人も「うち」だらけ。これさえ使っておけば、話題についていけてる感じがしたし、周りに馴染むことができた。
「うち」は、外と内であり、内輪ノリや結束感を演出するには最適だった。

女子校だった故なのか分からないが、たまに「僕」という同級生もいた。
そういう子は途端に目の敵にされ、変な子認定。

今ならば、多感な時期にあえて「僕」を使う勇気に乾杯だが、当時は自分と異なる他者に対する未熟なアレルギー反応で極度に関わらないようにしていた。
「僕」の彼女がどういう真意だったか分からない。でも、10年前なんてまだジェンダーも多様性もクソもないなと思う。


そして大学生になり、出会う人数がぐっと増えた時「わたし」という一人称を使う友人と出会った。
いま思うと別に普通だが、これは衝撃的だった。


「わたし」という一人称を使うニンゲンが目の前に現れたのだ、、!


「わたし」というのは、テキストベースで見たことがある、周りの大人が使っている、あの一人称。
急に「ぼたんちゃん」が子供っぽく感じ、慌てて矯正した「うち」も、もはや「わたし」の前では赤子のよう。

その頃からまた「わたし」への矯正作業が始まった。
2回目の歯列矯正、2回目のアイデンティティ矯正。

「わたし」を使いながら述べる意見は、当時の稚拙な考えも包括してくれて、ひと回り大きく、それらしく聞こえる気がした。
相手と対等になれるがして、それから今日までの一人称になった。


当分はこれで一生行くと思っていたが、なにを思ったのか、30歳を迎えた最近の一人称は「おれ」。

「俺」でも「オレ」でもなく「おれ」。

クレヨンしんちゃんの「おら」に近いニュアンスで脳内再生してもらえばよい。

自分の思ったことをそのまま表現する時、なんだか「おれ」がしっくりくるのだ。


「わたし」から「おれ」なんて、なんだか格下げだとも思う。
歯列矯正でせっかく整えた歯並びがガタガタ、八重歯まで生えてきたようだ。
さすがに職場や初対面の場で使う勇気はなく、もっぱら家の中で使うだけだが、使いすぎて表に出そうで怖い。
だから親しい友人には、「おれ」にハマっていることを先に伝えておいた。

笑った時に、たまにファッション八重歯が覗きますけれど悪しからず、と。


今まで二度、一人称を意識して自ら矯正してきたけれど、考えてみれば、おかしな話だ。


英語では性別も年齢も問わずI(アイ)だし、スペイン語はYo(ジョ)だし、北京語では我(ウォ)である。
日本語の他にも一人称が複数ある言語は、アジア圏を中心に複数存在するという。

日本語に一人称が多い理由として、近代以前には村や藩などのコミュニティや関係性によって一人称を変える必要があった、と言われている。
明治以降、欧米主義的な個人主義の考え方が持ち込まれ、自己同一性の概念が広がったと言われている。
とはいえ、日本の文化としてまだまだ一人称の表現はたくさんあるということだ。 


詳しくはこちらがわかりやすい。
僕、私、当方、小職、拙者、朕。。。日本語の一人称はいったいいくつある?そしてなんでこうなった?


そういえば、夫であるやっちゃんはいろいろ使い分ける。 

仕事や公式な場では、「私」、
友人といる時は「俺」、
家族といる時は「わし」、
なにかを表現する時は「僕」。

コミュニティや関係性によって分けているんだとしたら、なるほど日本の文化を体現していたわけだ。それに加え、自己表現の手段として使い分けているとしたら、なるほどさらに羨ましい。

またもや矯正作業かのように思えるけれど、今回のは痛くもむず痒くもない。
美しい歯並びじゃなくてごめんなさい。


でも「おれ」はこの歯並びが割と気に入っている。

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