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父の作り話

私はお父さん子だったから、とくに小さい頃は父の言う事や価値観を信頼しきっていたけど、そんな父から子どものころ聞いたことでも、あれは嘘だったな、作り話だったな、と思うことがいくつかある。

まず小さなことでは、幼い頃の私が「お金拾った」と十円玉を渡したとき。父はそれを財布や車のキーのそばに置きながら、
「明日仕事行くついでに警察署に届けてくるでね」
と言った。その頃の父の職場のそばに警察署もあったし、私もまだ幼かったので、その時は完全に信じていたけど、あとになって考えれば、十円を届ける大人なんていないだろうと分かる。きっとあのあと十円は父の小銭入れに収められたんだと思う。
でも当時の私には十円でもネコババしたら重罪のような気持ちだったから、あれで安心できて良かったのだった。

次に小さい話は、カセットテープ。父は音楽やオーディオが好きだったので、カセットテープも引き出しひとつ分あった。レコードもたくさんあったけど、子どもの私にはレコードは触らせてくれなかった。指紋でベタベタになったり割れたりしたら困るから。カセットは触ってもよかったので順番に出してレーベルを読んでいた。音楽の入ったの(何ていうの?既製品?)を買ったテープも一本二本あったけど、ほとんどは空のテープに録音して父の丸こい字で曲名が書かれたものだった。
曲名、作曲者、演奏者、指揮者、ときちんと書かれ、最後に何年何月何日、何々ホール、と演奏場所も書かれていた。大抵はうちからは遠い東京のホールだったので、どういうことなのか父に聞いたら、
「東京の友だちに頼んでコンサートで録音してもらっただよ」
と言い、私も小学生くらいだったので、ふうん、そうなんだ、と思った。家に父の友達なんて来たことなかったけど、郵便局員だけあって年賀状は二百枚くらいもらっていたから、あの中の誰かだろうと思っていた。
だいぶあとになって、父にそんな東京の友達などいないのではないか、ということや、ウォークマンのある時代だったとはいえ演奏会の客席で録音するのは駄目だったんじゃないか、ということや、父はレコードの音源をウォークマンで聴くためにカセットにダビングしていたんじゃないか、もしくはラジオで放送されたものを録音したのかも、ということに思い至ったのだった。
そして父に、昔こう言ってたけど、と聞いてみると、
「そんなこと言ったかねえ?覚えがないなあ」
と笑っていた。

あと一つ。
父の眉間にはほくろがあった。ちょうどインドの人がちょんと点を描くあの辺りに。私は同じ位置に水ぼうそうを掻き潰した跡があり、なんとなく父とおそろいのような気がして少しうれしく思っていた。
「父ちゃんはここにホクロがあるね」
と言ったとき父は、
「これは生まれたときからあるだよ。父ちゃんが生まれたとき近所のお婆さんが『お釈迦様の再来だ』って拝みに来ただに」
と言いながら手をすり合わせて拝む真似をしてみせた。
さすがにこれは絶対うそだよ、と聞いたとき内心思った。仮にそういうお婆さんがいたとしても、お婆さんも本気じゃなく、面白いから言ったんだろうな、と。

それから数年後、高校生になった私が同じ電車で通う子と電車内で一緒になったとき、なんでだったか父のほくろの話をしたことがあった。その子はお釈迦様のくだりを聞いて、
「すご~い」
と感心してしまった。私は、そんなわけ無いじゃん!と笑い飛ばしてほしかったので焦って、
「いやいや、冗談だから、作り話だから」
と訂正しようとしたのだけど、思った以上に素直というか素晴らしくいい子だったので、
「いや~すごいよ〜」
とすごい話のままになってしまった。
父はただ眉間にほくろのあるだけの、普通の、人の良いおじさんだったのに。

父はダジャレやオヤジギャグは全く言わなかった。それらは恥ずかしい以外の何物でもないと思っているみたいだった。かといって真面目かといえば違った。ゲラゲラ笑わせるようなのではなく、ふふっと笑えたり、静かに面白いなあと感じるような、気の利いたことを言うのが好きだった。

私が二十代の頃、某パンダのマークの自然保護NGOから来た会費引き落としのお知らせの手紙を開封していたら、父がちらっと見て言った。
「またパンダの餌かね。パンダの前に父ちゃんを救ってくれ!」(意味:こづかいがもっとあったらいいのに)

またある時は村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」を読んでいたら、
「ねじまき鳥がおるならうずまき猫もおるかね?」
と言って、そこにあった新聞かなんかの余白にちょいちょいと猫の絵を描いて、横腹にぐるぐるとうずまき模様を加えた。
父、村上春樹は全く読んでないのに。村上春樹の本に「うずまき猫のみつけかた」っていうのもあるの、知らなかったと思うんだけど。