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天使

大雨の夜だった。金曜の夕方近く下り車線は渋滞していて、車のヘッドライトが車道を照らしていた。上り車線に出るつもりだったが、渋滞のせいで仕方なく下り車線に乗ることにした。ウィンカーを出すと右側から来た白いフィットが道を譲ってくれたので、ハザードランプを点滅させた。金曜の人間は天使だ。きっと彼は、これから玄関までレンガのアプローチが続き、サンルーフの下にはオレンジ色の自転車とバーベキューセットが置いていある新居で、友人数人とビールを飲むか、美人の奥さんとくつろいでテレビを見るかするのだろう。Uターンして戻るのは大変なので迂回して帰ろうと思った。ゴルフ場の脇の細い林道沿いを走って行くと、ゴルフ場と林道との間には金網が張り巡らされていて、金網が林道のカーブに沿って右へ左へうねうねと続いている。車のフロントガラスに激しく打つ雨が滑らかな模様を作って後ろに向かって流れていった。車からゴルフ場を見渡すと丸い池が見えた。池に集まるカルガモの群れがじっとうつむいて嵐が去るのを待っていた。一面グリーンのなだらかなコースが見渡せ、背の高い木々が林道を暗くし、雨を滴らせていた。その木々の向こうの広々としたグリーンに、赤い傘を差した水玉模様のワンピースを着た女と、黒い傘を差したスーツの男が向かい合って立っているのが一瞬見えた。しかしこれは空想である それから二人は傘を放り出して、お互いに両手を差し出してぐるぐる回った。二人は互いの顔を見つめ合い、林道からもっと離れた場所に、いつもの茂みの語り場へ、手をつなぎ走って行った。
 あくるの日の夜、二人を乗せたタクシーはホテルの車回しに到着していた。ホテルの入り口は煌々と明るく、何台もの黒いハイヤーが忙しく出入りしていた。白い手袋を着けたボーイが磨き上げられたタクシーのドアノブを開き、中から黒いエナメルのヒールを履いた赤いドレスの女が外に出た。反対側のドアから光沢のあるチャコールグレーのスーツを着た男が降りて、女の手を取りエスコートした。
金色に輝く入口ドアをくぐると男の背丈の二倍はありそうなシャンデリアが白い光をフロア全体に投げていた。南国風の植物が大きく葉を伸ばして、ワイングラスが積みあがっているテーブルの白い布に影を落としていた。二人はボーイの案内でバーへ入った。
「なかなか雰囲気の良いバーね。あのダンスいつ覚えたのかしら」と、女が言った。
「きっと昔から。大昔に覚えたのさ」と、男が言った。
「お上手だったわよ。あんな大雨になるなんて意外だったけれど」
「君が踊ってのを見るのは久しぶりだね」
「あのカルガモ達無事に帰れたかしら」
「心配ないよ彼らには母親がついているからね」
「車が通ったね」
「あらそう、全然気づかなかった」
「確かに通ったと思う。こちらを見てたな」
男はグリーンのカクテルを飲み干した。「お代りはいかがしますか」とバーテンが言った。「ええ、いただきます」と男が言った。グリーンのカクテルがテーブルに置かれた。
「翡翠ね。その色」
「知恵の水を飲み干す」
「素晴らしいわね」
その後二人は部屋に入った。赤いカーペットの上にキングサイズのベッドが一つ置かれていた。ベッドの四方の濃い青の壁には金の額縁に入った、美しい絵が飾られていて、時を経た分厚い本が並んだ本棚の中には、荒削りのライオンの像が置かれていた。
二人はランプの明かりが灯るベッドの上に座り、何もかもを語り尽くした。二人が夜更けに窓を開けると、満天の星々が夜空に瞬き、月が静まり返った街の小道に光を落としていた。窓のへりに二人は並んで立ち、パジャマのまま夜空に飛び出し空高く飛んだ。灰色の雲の冷たい風を受けながら、真夜中の街を見下ろすと、明かりはまばらで、小道に酔っ払いが二人いて、愛を高らかに歌っているのが見えた。自転車に乗った若い女が実家に帰る途中だった。子供が小石を蹴っていた。しばらく飛ぶと強く雨が降ってきて、二人の髪は濡れ、女のドレスの襞は重くなった。男がポケットからハンカチを取り出して女に渡そうとしたが、女は断った。視界が少しひらけると、広いゴルフ場が薄っすらと眼下に広がった。丸い池の中にカルガモの黒い点がまばらに見えた。二人がゴルフ場に隣接した暗い森の中を見下ろすと、金網に沿って一台の車が林道を右へ左へぐねぐね走っているのが小さく見えた。
金曜の人間は天使だ。


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