banksy
バンクシー展が開催の日を過ぎて一週間ほどが経ったが、客入りはまずまずといったところだった。バンクシーの作品が日本に来日するのはこれが二回目である。一回目はテレビの昼の番組でも芸能人がいつものごとくおふざけしながら大きく取り上げられた。中でもバンクシーがヨルダン川近くの町の壁に書いた「フラワー・スローワー、フラワー・ボンバー、レイジ、あるいはラブ・イズ・イン・ザ・エア」はバンクシーの象徴的作品として有名である。花束を投げるマスク姿の男の表情は病的に見える。一回目の展覧会は若者でごった返した。瞬く間にSNSで拡散しバンクシーは今最も日本で有名なアーティストと言えるかもしれない。しかし日本人の性質としてにわかにこの現象が信じられない人たちは、【落書き】がアートと呼ばれ、世界中で賞賛されていることが信じられなかった。むしろ、心の底から嫌った。バンクシーが早く捕まればいいと願う人が少なからずいるのは確かだろう。
一回目の展示と二回目の展示の間にも美術界には大きな事件があった。バンクシーの「少女と風船」が1.5億円で落札されたのだ。しかしその作品は落札の瞬間、額縁に仕掛けられたシュレッダーにかけられ細切りになった。サザビーズで現代美術を担当するアレックス・ブランチック氏によるとシュレッダー事件は「作品を破壊したというより、創造したといえる」とコメントしている。今回の展覧会はシュレッダー事件後初となる、持ち運ぶのが余りに困難な作品を除くバンクシーのほとんどの作品が展示されていることから、関係者はかなりの動員数を見込んでいた。
ところが、今バンクシー展を開催している東京の郊外にある美術館は休日にも関わらず閑散としていた。この美術館は、明治初期、自転車用のタイヤ製造から世界的タイヤメーカーまで急成長させた創設家が建てたもので、企業の社会貢献活動の一環でもあった。そのような性質からか、美術館の周りには色とりどりに植えられた季節の花々が植えられ、地元民の生活に彩りを添えていた。そういった種類の美術館であった。
地面に射撃手のように白い望遠レンズを構え、春に芽を出したツクシを撮影する白髪の男もいれば、現代彫刻がその中心に鎮座する、精神不安な薄紫の夕暮れ時に、この横を通る時ある種の不安発作を起こすだろうと予想される広場の片隅で、ビニールシートを敷いた家族が、今は真昼の太陽を浴びた子供がシートの周りをぐるぐると走り回っていた。さらに、保守的な地理性も大きく関係していた。保守的な鑑賞者は、印象派やロマン派を求めているのが常である。
「ごほん」という咳払いの音で田中絵里は白昼夢から目が覚めた。眼の前に白いシャツを着た男子大学生が立っていた。「すみません、解説のイヤホンか何か借りたいんですけどありますか?」「はっ、失礼しました。解説のイヤホンは入り口の受付でお貸ししています」「ありがとうございます」「いえ、ごゆっくりご覧下さいませ」田中絵里はあまりの恥ずかしさに顔を赤らめしばらく俯いた。彼氏から入社祝いで貰ったティファニーの時計の針を見た。先ほどから三十分ほどしか時間が経過していない。
パイプ椅子に座りっぱなしでお尻も痛くなってきた。絵が好きで芸大で学芸員の資格を取って、絵を間近でいつまでも見てられるからという子供じみた考えで美術館に就職したものの、この食後の眠気は耐え得難いものがある。先輩たちは訓練された忠実な犬のように、決して持ち場を離れることもなく、もはや眠くなることもないのかもしれない。持ち場の全責任を追うというこの美術館の方針が重石となって彼女らに使命感を与え眠気を吹き飛ばすのだろうか。
今この大きなフロアの壁には「ピンク色の仮面をつけたゴリラ」や「笑っていられるのもいまのうちさ、もうすぐオレたちの出番がくる」、「パルプフィクション」などのバンクシー初期の作品の実物大の複写が並ぶ。その中央に例のシュレッダーで細切りになった「風船と少女」が特別に所有者から貸し出され展示されているのだった。「風船と少女」はその哀れな裁断面を絵里の方へ晒していた。当然ながらこれが今回の目玉だった。この展示室の担当に特別に新卒へのある種のサプライズとして絵里にあてがわれたのであった。
薄暗い展示室には今、四人の鑑賞者がいた。母娘―と言っても娘は五十代くらいであろう―特に何かその絵の中に見出すでもなく、日常の延長線上にあるそれらの絵を鳥が通り過ぎるのを一瞬見たのと同じようにそれを見ていた。時折母娘はひそひそと何か話していたが、絵とは全く関係のない生活上の話なのであった。もう一人は中年の中肉の男で黒いウェストバッグを身に着け水色の縞のポロシャツを着ていた。彼も母娘と同じく絵を見ているようで、見られている自分をむしろ気にかけているかのようであった。彼は誰がどう見ても暇人であった。
最後の一人は、四十がらみの男で背は高く瘦せ型で紺色のジャケットを着ていた。顔はやや黄色みがかっていて目は熱を帯びていた。彼もバンクシーの絵を見ながらも何か考え事に耽っているようであった。
母娘は「風船と少女」の前で立ち止まった。
「これが1.5億円もするんですって」母親がまじまじと作品を見つめながら言った。
「お母さんちょっとちぎってみたら。そういうアートなんでしょ」娘の方が言った。
「街の落書が1.5億円って変よねえ。変な世の中になったもんだわ」母親の方が吐き捨てるように言った。
「でも、ただで貰えるならもらうでしょ?」娘が言った。
「どこに飾るのよこんなもの。花でも生けてた飾ってた方がましじゃない?そもそもストリートってなんなのよ、ストリートってさ」母娘は次の会場へ歩いて行った。
その後ろを歩いていた四十がらみの男は「風船と少女」の前に立ち止まり、しばらく漠然と見ていたが、くるりと絵に背を向けると手に持った黒い鞄を地面に下ろし、その中から黒い銃を取り出すと口に咥えた。一瞬絵里と目があった。霧がかったような目だった。絵里は思わず何か叫ぼうとした。次の瞬間、男は引金を引いた。銃声が響いた。男の頭ががくんと後ろへ一瞬のけぞったが、銃を自分の口の中に入れた体勢のまま、妙な顔つきで前向きに突っ伏した。「風船と少女」には鮮血が滴っていた。特にハートの赤と血の赤が美しく調和しているようだった。絵里は「キャーー!」と悲鳴を上げると、隣のフロアから銃声を聞きつけた先輩社員が駆けつけた。「警察だ、警察呼ぼう、すぐに!すぐに!」先輩社員は叫ぶと携帯を取り出して駆けていった。再び絵里は死体と対峙することになった。男の頭のまわりの血だまりが刻々と面積を広げている。展示室は煙で白っぽく、煙の臭いが充満している。
数十分経つと警察と救急車が美術館に到着した。幸いにもここから緑ヶ丘中央病院までは五キロと離れていない。警察と医者と鑑識が白いビニールの布で死体の周りを覆った。女性の警察官が絵里に近づいてきた。
「お怪我はありませんでしたか?」
「ええ、幸いに」
「もしかすると、あまりのショックで今はなんともないかもしれませんが、精神的な症状として現れてくるかもしれません」
「はあ、そうですか」絵里は茫然自失の状態だった。
「今はお話出来る状態ですか?」女性警察官は言った。
「はい」と、なんとか絵里は答えた。
「まさかバンクシーの作品の前で自殺するとはこれはいったいどういう意味があるんでしょう川島さん」
「これはなんとも屈折した心を持った人間のすることですよ」
「でも要するに、最近世間を騒がしている環境活動家のやることと非常に良く似ていませんか」
「でもねえ、そういうメッセージを彼は発していませんよ。だってもしそれをやるんだったら何か環境保護のシャツを着たりするわけでしょう。それがないんだからただ目立ちたかっただけですよ」
「一部の若者のあいだではSNS で英雄視されているみたいですね。真の破壊という意味でね」
「作品を破壊するんじゃなく自殺するのは、確かに創造と言えるかもしれないが、しかし…」
「ネット上ではキリストになぞらえて語る人もいるようです。創造の神なのか、究極の環境活動家なのか。CMのあと、真相に迫ります!」
春の小雨が霧のように降っている四月の午後、西山真治の葬儀が地元の修泉寺で執り行われた。本堂まで続く苔むした畳石の上に桜の花弁が舞い落ちていた。濡れて黒くなった畳石の横の桜の古木の幹も同様に苔むして、雨の雫を溜めた花が満開だった。庭には丸く刈り込まれたサツキが時期外れの赤い花を何房かつけていた。サツキと紫陽花の間から手入れの行き届いた青々とした苔の上に寂びた小さなお地蔵さんが二体、隠れるようにひっそりと置かれている。今、畳石の上を参加者の黒い傘がゆっくり本堂の方へと進んで行く。
喪主は兄の健二が務めた。やや中肉で肌も白い彼は外へ出て行くことはほとんどなかった。つまりひきこもり状態だったのである。そんな彼がこの大役を買って出たのは周囲にとっては驚きだった。最後に兄らしいところを見せたかったのかもしれない。彼は今弟の写真を持って、本堂へゆっくり歩いて行く。その後を母親の朋子が小さな立方体になった真治を抱きかかえ進んで行く。二人の後を、数人の学友が連れだって行く。その後に警察関係者が職業上の同情を遺族に寄せながら進んで行く…。
稲葉茂雄は法華経が響くお堂の周りを見渡した。天井は高く、格子状に分けられていて、その格子一つ一つに野生の花が―もうだいぶ色褪せてはきているが―描かれていた。経を読んでいるお坊さんが座る奥の方には金色に輝く薬師如来、釈迦如来、不動如来、無数の観音像が黄金に輝きながら、人間の善悪の行いとはかけ離れた顔つきで並んで立っていた。そして遺影の写真を眺めた。色が白く鼻が高い切れ目の野生的な感じする男だと稲葉は思った。それから、遺影の前でうずくまっている母親の姿を見た。息子が自分より先に逝くなんてさぞ悲しいだろう。稲葉は心から同情した。稲葉にも小学生の子供が二人いた。
葬儀が終わり、西山真治の母は来てくれた人たちに心からの感謝を述べていた。
稲葉は職務上やらねばなけらないことに心を痛めた。遺族の心の傷を開いてしまうだろうことは分かっていた。
「西山真治さんのお母様でいらっしゃいますか?私、刑事の稲葉と申します」
「ああ、刑事さん。お忙しい所来てくださってありがとうございます」朋子は深々と頭を下げた。朋子のやつれはてた顔からは絶望が垣間見えた。
「後でお時間ございますか?今回の事で少しお話をしたいのですが?」
「ええ、これから片付けがありますから、そのあとでしたら。自宅の住所はご存じ?」
「はい、メモしてありますので」稲葉は言った。
「では、少しお時間頂くかもしれませんけれど。またご連絡致します」朋子が言った。
「名刺です。ここに連絡して下さい」稲葉は名刺を差し出した。
稲葉は午後五時ちょうどに西山真治の自宅に到着した。
宵の口で一番星が空に瞬いていた。西山家の玄関の灯りがついていた。稲葉はインターホンを押すと年老いても上品な声が中へ来るようにと言った。
扉を開くと普段着に着替えた朋子と健二が稲葉を迎え入れた。居間のテーブルに三人で掛けた。
「この度はご愁傷様でございます」稲葉が改めて言った。
「ありがとうございます。でももういいんですよ。そんなにかしこまらなくて。仕事で来たんですから、それをしっかりやらなきゃ」朋子が言った。
健二は妙に場違いな所にいる人間に見えた。
「今回の息子さんの自殺の件ですが、皆さんもご存じなように、世間で非常に話題になってます。あのアーティストの―バンクシーですか?あれも世界的に有名なものですから、同じような自殺が起きないか、厚労省も懸念しているんですね」
「自殺なんてね、する子じゃないんですよ。昔は活発で、友達を笑わせてばかりいました」朋子が沈みがちに言った。
「社会人になってからかしらね。なんだか疲れた疲れたって言ってね。兄もひきこもってるでしょ。だからああなっちゃったのかしらね」朋子の表情が居間の照明のせいで昼間よりもより暗く見えた。
「ではやはり社会生活が上手く行かなくなったからと思われるんですか?」稲葉が言った。
「そうじゃないかしらねえ。他に何も思い当たるふしはないですもんねえ。でも未だに信じられないのあの子が自殺するなんて」朋子は暗い底に沈んでいった。
「―日本橋にバンクシー現る!― 昨夜、日本橋にバンクシーのものとされる首を吊ったサラリーマンの男の絵が描かれていたということですけど、これは西山さんの自殺に関係あるんでしょうか、川島さん」
「まあ普通に考えたらそうなりますよね。このグラフィティも相当な価値を持つと思いますし、彼の自殺ですよね。あれも一種のボディーアートとして認められるんじゃないかなあ」
「ボディーアートですか」
「タトゥーやピアスもボディーアートの一種ですが、マリーナ・アブラモヴィッチという人は自分が疲労で倒れるまで踊り続けたり、Rhythm Oという72通りの方法で観客が彼女を痛めつけるというパフォーマンスがありましてね。最後は銃を撃つか撃たないかで観客が揉めて終わったらしいんですけど、そういう過激なアートと今回の自殺が同類であるかは色んな意見が出るかと思われますね」
「非常に過激なアートですね。社会的に許されるのか、また、追随者が出て来ないか心配ではありますね」
ボディーアートだと。私は環境活動家でもないし、ましてや真の創造者でもない。ただの犯罪と言えばそれで済むだろう。
私は太陽の日にきらめくガンジス川を窓から望む小さな部屋の白いベッドでくつろいでいるところだ。涼しい風が白いカーテンを揺らし部屋に吹き抜けている。目の前のテーブルの上にはバンクシーの「風船と少女」が置かれている。もちろん、血の飛沫なんてない。一定時間で消える特殊な塗料を使ったのだから。買収は簡単だった。緑ヶ丘中央病院も。鑑識も。あの死体を囲んだ白い幕の中で全て行われたのだ。売り手はもうずいぶん前から決まっていた。美術マーケットには裏ルートが蜘蛛の巣状に張り巡らされているのは美術コレクターの都市伝説ではない。それは確実に存在しているのだ。あと数日間、仲間がマネーロンダリングしてる間、この安宿でエキゾチックな景色を堪能したら、魔法のランプで私の口座に1.5億振り込まれてるということだ。
しかし、世間のニュースにはうんざりさせられる。破壊は創造?私がキリスト?馬鹿らしい。自由に比べれば世間が欲しがるようなものなど大したものではない。それは手に入れた者だけが知る事が出来るのだが!
今、ガンジス川の向こうに夕日が沈もうとしている。東洋の夜は神秘だ。今夜舟で夜のうちにガンジス川を下流へ下るつもりだ。そして私は舟に横たわり、櫂の倦怠な音を聞きながら、仰ぎ見るだろう、無限の星の瞬きを。
おお、自由よ!!
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