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7月のある日の記録

7月の梅雨の晴れ間にしては、風が部屋をよく吹き抜ける。窓からは、白く細い砂利道がゆるやかに続き、赤い色褪せた屋根の、1階が鼻のように突き出た出窓のある家の前で消えているのが見えた。さらにその道の方角のさきに、ハリボテのような杉の森が見え、眺めはそこで行き止まりになった。

今は午後3時。太陽がぎらぎらと地面を照らしている。蟻の行列が子供のいたずら書きのように、うねうねと黒い曲線を描き、先頭の蟻は死骸を穴の中に引き入れようともがいている。

この静かな部屋でこんなにも長く過ごしていると、自分の頭の中の声が鮮明に聞こえてくるようだ。自分の意識では留めてはおけない速さで脳の中枢神経に伝達していく。
思考はやがてこの部屋をいっぱいにして、もうこの部屋の大きさでは抱えきれず、窓の隙間から青空に向かって行進していく。

鳥の声がひっきりなしに聞こえる。

「本当に心配」と彼女は電話口で言った。まったくその通りになった。彼女はといえばこの世を旅立った。
20年しか生きられなかったのか、20年も生きられたのか。その倍も生きた自分の人生は、あまり褒められたものではない。彼女の予想は的中したのだ。

たった今、轟音を響かせながら飛行機が西の方角へ飛んでいった。あのイタリア行き飛行機に彼女がもし乗っていたら?イタリアの開放的な太陽がさんさんと降り注ぐ白い砂浜に降り立ったら?パラソルの日陰で寝そべる彼女に地元の青年が声をかけるが、相手もされないので、しまいには不機嫌になっておずおずと自分の仲間のもとに帰って行くだろう。

そんな想像をしてみてもいい。

窓から幹が途中でぶつりと切られ、枝葉の無くなったキンモクセイが見下ろせる。他にも同じように恥部をさらすかのように幹だけが露わになったヤマボウシやモミジも。
先週の日曜日、町のシルバー人材センターから派遣された3人の植木屋が、4時間ぶっ続けで怒涛のように作業し、それが終わると、砂煙をもくもくと上げながら、家の未舗装道路を軽トラックで去って行った。
来年の春を迎えられるのはキンモクセイだけだろうか。

生から死までの時間軸のどの位置に自分が立っているかを知るのは難しくない。可能性の未来が恐ろしくわたしを不安にさせる。それは未来の見通しが暗いからという意味ではない。可能性の広大さが不安にさせるのだ。椅子にロープで縛られたまま、目隠しされた状態で手を伸ばしたり、引っ込めたりする人間は滑稽だろう。

わたしは、白い砂利道と杉のハリボテが見えるこの家を、憎みつつも愛しているのだろう。




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