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20年前のシネマスクリーン

 将人はこの巨大なシネマスクリーンを見上げるたびに同じ大きさの真っ白なキャンパスを想像する。将人は赤や青や緑のペンキをそのキャンパスに向けてぶちまけてみたかった。巨大なキャンパスの上で混ざった様々な色のペンキは、キャンパスの下に垂れ落ち、その絵画のイメージは段々と形を持ち現実的なものとして固定されるのだが、鑑賞者に取り込まれた後はそれは固形物ではなく、流動物として抽象的に再生され続けるのだ。そういう意味で絵画と映画は似ているな、と将人は思った。両者とも実体がないのではないだろうかと将人はひとり劇場の客席の下のポップコーンを箒で掃きながら考えていた。将人は清掃が一通り終わると、劇場の入り口に置いたキャスター付きの大きなごみ箱の中に塵取りに入った大量のポップコーンを捨てた。

 将人は支配人室の扉を開けて、支配人の鈴木にシネマ3の清掃が終了したことを伝えると、鈴木はパソコンから顔を上げ「お疲れさま」と言った。
「次流行りそうな映画はどれだと思う、俺はこの「ランニングマン」って映画が気になってるんだけどな」鈴木はパソコンの画面を将人の方に向け見せた。
「ランニングマンって映画嫌いじゃないんですけど、トレーラー見ましたが、ちょっとハリウッド寄りっていうか大衆向け過ぎて。俺はもっとミニシアター系の映画を取り扱って欲しいなあと常々思うんです。例えばこれとかどうですか「透明の舟」」
透明の舟———死んだ母親と娘の一日の心の移ろいを繊細な描写で描く―――の予告映像を鈴木に見せた。
「まあ悪くないんだけど、ここはシネコンだからね。家族三人で「透明の舟」はちょっと見ないかもしれないな。一昔前はそういうのでもそれなりに人は入ってたんだけど、レンタルビデオも今はあるから」鈴木は言った。「そうですよね。分かってますけど、あくまで希望です」
「わかった。考えておくよ。それじゃあ今日は上がっていいよ」
「お疲れさまです」
 支配人室を出ると柔らかな質感の赤いフロアマットの上を歩いた。フロアマットには飲み物の染みがあり、将人が実際には見たことはない多くの観客の姿と彼らの思い出が胸に呼び起こされた。劇場は薄暗く、ポップコーンが入ったガラスケースの黄色いライトと、二階へ続く階段の手摺の青と赤のネオンだけがエントランスホールを照らしていた。十五年愛されたシネコンは今でも健在だった。

  四年前、将人と直也と佳穂を結びつけたのはTHE SONSのCDアルバムだったと言っても過言ではない。将人が高校生の頃、THE SONSが地元のライブハウスに来るという噂が流れると、クラスの中の流行に敏感な生徒の噂になった。彼らは教室の後ろの方でTHE SONSのどの楽曲が優れているか、POPなのかROCKなのか、音楽性と方向性、ライブハウスの音響は良いか悪いかなどの議論をした。その中心にいたのが直也だった。直也は他の三人に意見をぶつけた。将人はその輪に入っていなかったものの、たまに欠員が出るとそこに入ることを許された。

 ライブ当日の夜、入り口から行列が出来て、黒いジャンバーを着たスタッフが喧噪の中チケットを回収していた。将人は直也に誘われてここに来た。もちろんCDアルバムは持っていたがライブは初めてだった。間に合わせの帽子や、Tシャツをとりあえず近くのショッピングモールで買って身に着けてきたが、それでも場違いな気持ちを抑えることはできずに行列に並んでいた。
「将人が今着てるそのROCKって書いてあるTシャツなんだけど、それ本当にいけてるのか」直也が言った。
「だめかな、俺にもいけてるかどうかは良く分からないんだけど」
「まあ、お前がいいと思うならいいんだけどさ」
直也は髪は青く染め、黒いデニムに黒のモヘアのセーターを着ていた。もちろんスニーカーも黒だ。
そのとき後ろから声がした。
「直也君も来てたんだ。私のこと分かるかな。会うの久しぶりだから」
「佳穂ちゃんだ。ライブ来てたんだ。こっちは将人、幼馴染」
「どうも」と将人は頭を軽く下げた。
「こんにちは、はじめまして、なんて呼べばいい?将人君でいいかな、みんなからなんて呼ばれてるの」
佳穂は明るく染めた髪を後ろで編み込み、白いトップスに細いデニムをはき、首から緑と黄色が交互に編み込まれたネックレスを下げていた。そのネックレスには青い石がついていた。
「将人とか、まさちゃん、とかかなあ」将人が言った。
「へえまさちゃんってかわいい。今度からまさちゃんって呼ぶね」佳穂が言った。

 ライブハウスは熱狂的な空気に包まれていた。バンドの演奏が始まると客は飛び跳ね隣の客とぶつかり、最前列の客は頭を激しく振った。ボーカルは声を涸らし歌った。その音楽に客は魅了され大きな渦を作った。「さいこー!」佳穂が叫んだ。
ライブが終わると客がパラパラとライブハウスから出て行った。
「ねえ佳穂ちゃん連絡先教えておいてよ」直也が言った。
「いいよ。またみんなで遊ぼうよ。まさちゃんもね」と佳穂は言うと直也と連絡先を交換し佳穂は友達と帰って行った。
「直也いつあんなかわいい子と知り合いだったんだ。お前なかなか俺の知らないところで色々やってるよな」将人が言った。
「友達の友達。一度みんなで飯食いに行ったくらいだけどね。結構かわいいよね。読者モデルやってるみたいだし」
「なんだか向こうは直也に興味ある感じだったんじゃない?」
「そうか、気のせいじゃないか」直也は言った。

 直也と佳穂はライブの一週間後に付き合った。それは盲目的で青春時代を早く終わらせる為の手段のようだった。

 実生活の方で三人は未来の選択というシビアな難問を否応なしに突き付けられていた。他の生徒が受験勉強で忙しくしている時、将人は教室で前に座っている女子生徒のポニーテールと背中をノートの余白に精緻に描いた。授業が終わり、将人が美術室でテーブルの上の石膏像の陰影をクロッキーに描いていると、美術部の顧問が将人の横に立った。「将人君なかなかいい線描くじゃない。線はいいんだけど、もっと構図にこだわって欲しいの。あなた才能あるから頑張りなさい」顧問は言って、隣の生徒の作品に批評に移った。将人は美大を受験することを決め、直也と佳穂のふたりは同じ服飾の専門学校へ願書を提出した。

 「今日採用面接で数人と会ったんだけどさ、その中に将人の事知ってるって子がいて、俺もびっくりしたんだけど。この子なんだけど知ってるか?」将人が映画のポスター看板を拭いていると鈴木が来て言った。鈴木の手には佳穂の履歴書が握られていた。
「佳穂だ。高校時代からの知り合いです。採用するんですか?」将人が看板を拭く手を止めて言った。
「一応そのつもり。この子にはグッズの販売の方をやってもらおうと思ってる。長くその場所担当してたスタッフが社会人になるからってやめちゃうんだよ。いきなり一人じゃ大変だから将人君も面倒見てやってくれよ」と鈴木は言って客席の方へ歩いて行った。

 高校卒業から二年がたち同時に将人は美大に、佳穂と直也もそれぞれ服飾の専門学校へ入学した。将人はふたりと疎遠になり寂しさを抱えるようになった。孤独な夜は劇場のスクリーンの先の物語に浸った。

 佳穂は以前と変わらず魅力的だった。将人が劇場に入るとすでに佳穂は売り場で品出しを先輩から教えられていた。ユニフォームの赤いポロシャツがここまで似合わない人間もいないだろう。髪を後ろでひとつ結びにして、妙にぶかぶかな黒いズボンをはいている。佳穂は将人に気がつくと笑い小さく手を振った。佳穂が休憩中、将人に話しかけてきた。
「久しぶりだね」佳穂が言った。
「なんで俺が働いてるって分かったの?」将人が言った。
「直也に聞いたんだ。そりゃびっくりするよね。二年ぶりくらいだよね会うのは。直也とは二人で遊んだりしてないの?」
「お互い忙しいって察してるのか、最近は向こうから連絡来ないし、俺からも連絡してない。俺がここで働いてるって友達に聞いたのかもね」
「なんか寂しいじゃん。またみんなで会おうよ。そろそろ休憩終わるから戻るね」と佳穂は言って新作のポスターの整理に戻った。

 将人はその日の帰り道、駅のホームのベンチに座っている佳穂を見つけた。佳穂は服飾学生らしく黒い大きめの奇抜な服を着て、そのファッションを着こなせる自信がさらに佳穂を魅力的にしていた。整った顔立ちと大きな瞳も年上の男を引き寄せそうに見えた。将人が隣の席に座ると佳穂は気づいてヘッドホンを外した。「同じ時間だったんだ」将人が言った。
「ちょっと寄り道してたの。この本知ってる?ドストエフスキーの罪と罰って本。有名みたいなんだけど、読んだことなくて買っちゃった。なんだか小難しいことが書いてあるから挫折しそうだけどね」
「老婆から金奪ってそれから主人公が色々大変な目に合う話でしょ」
「そんな単純なことをこんなにぎっしり書いてあるの。それってある意味天才かも」佳穂は本を鞄にしまった。
「初日は疲れたんじゃない」将人が言った。
「そうでもないかな」佳穂が言った。
「久しぶりだからどこかでお茶でもしない?」佳穂が言った。
「いいよ」と将人は言ったが、内心の動揺を隠せなかったに違いない。佳穂の目が笑っているように見えたからだ。

 佳穂が調べてくれた喫茶店は、駅から少し離れた路地裏にあり、そこと言われなければきっと通り過ぎていただろう。窓からは暖かな光が漏れ出ていた。人ひとり通れる程の狭い店の入口をくぐると「いらっしゃいませ」と店内から声が聞こえて、すぐに店主が席に案内してくれた。ふたりは緑色のビロードのソファに腰かけた。佳穂はマフラーを取った。
「お洒落な店だね、こんな路地裏にあるなんて誰も気づかないよね」佳穂が言った。
店内は将人と佳穂のふたりしかいない。コーヒーマシンの豆を挽く音が店内を流れるJAZZの音楽に紛れて聞こえてきた。
「ほんとに久しぶりだね。ふたりで話すのなんて初めてじゃない」将人が言った。
「ほんとだね。最近どうしてるの。彼女は出来た」佳穂が言った。
「いや全然。昔からそうなんだけど、あと一歩ってところでタイミング逃すんだよね。全然モテないってわけじゃないんだけどさ」
「なんか分かる気がする。そういう人いるよね。もっと男は積極的に行った方がいいよ。趣味の方はどうなったの。確かエレキギターだったけ」
「アコースティックだよ。今でも続けてるよ。ボブディランのカバーしたり」
「いいじゃん。それとなくそういうの女の子にアピールして」
ウェイターが注文を取りに来た。
「えっと、じゃあホットのレギュラーと、佳穂はカフェオレだったけ」
「うん」
「じゃあそれでお願いします」
「少々お待ち下さい」ウェイターが言った。
「佳穂の方はどうなの?今でも直也と付き合ってるんだよね」
「付き合ってるよ。もう三年ちょっとになるかな。今は一緒に住んでる」
「じゃああれからずっと付き合ってるんだ」
「そう。それでさ、ちょっと聞きたいんだけど、男の目線から見て浮気する男ってどう見えてるの」
「直也が浮気してるの?」
「そうとは言い切れないんだけど。なんか分かるの。三年も付き合ってると分かるじゃんそういうのって。それでどう思う」
「そうだなーそういう話よく聞くけど、浮気してもまたくっつくカップルっているじゃん。そういうのって男として羨ましいなって思う。浮気自体は多分悪いことなんだろうけどさ、女の方がそれでも許すってことは、それだけ魅力的な男ってことでしょ」将人が言った。
「そう、そんな男どこがいいの?きっと女の方が弱いんだって。じゃあ浮気賛成派ってことだね」
「男女ってひとくくりに言ってもそれぞれ事情があるからこれがいいこれが悪いって断定できなんだけどね。でももし俺が浮気するとしたら罪悪感で苦しむだろうなって予想つくけど」
「それが普通に出来る男って、そうとう自信家じゃない。それか彼女に甘えてるんだと思う。彼女っていう家みたいなものがあるから自由に出来るっていうのが本人は分かってないんだよ」佳穂が言う。
「家か。なんか分かるような気がするね」
「お待たせいたしました」ウェイターがコーヒーをテーブルに置いた。
ふたりはコーヒーを飲んだ。「美味しい」佳穂が言った。
「むこうは考えてないかもしれないけど、私も結婚も少し考えたりするんだけど、やっぱりそういう時って不安になるんだよね」
「そうかもしれないね」将人が言って、コーヒーを啜った。
「ごめんね。私の話ばっかりしちゃって。美大の方はどう。楽しい?」佳穂が言った。
「普通に楽しいよ。油絵やるの初めてだし、絵だけじゃなくて立体的なものつくったり、体の動きについて勉強したり」
「そうなんだ。なんでそもそも絵に興味持ったの?」
「はじめて興味持ったのか。そうだねー、姉がいるんだけど、姉が美術系の仕事しててさ。それで家で画集だったり、姉がデッサンしてる姿見てちょっと面白そうだなって。それで高校の時にひとりで美術館行ってるうちに興味持ってって感じかなあ」
「そっか、お姉さんの影響なんだ。私デッサンてやったことないんだけどどんな気分なの。ちょっと興味あるかも」
「正直言ってそんなに楽しくないかな。何時間も同じ物体の陰影を描いてるとちょっと頭おかしくなりそうになるよ」将人が言った。
「何かの修行みたいだね」佳穂が言って笑った。
ふたりは結局ぎりぎり閉店時間までいて店を出た。駅までの行きすがら佳穂が言った。
「私も今日の話でちょっと美術に興味出てきたから、今度美術館連れてってよ」
「佳穂がいいならいいけど」と将人が言った。

 次の週の日曜日、駅の銀色のオブジェの時計が13時の鐘を打つと、ちょうど佳穂は改札から出てきた。佳穂はタートルネックの上に黒いコート姿だった。
「早く着いてた?」佳穂が息を弾ませ言った。
「俺もさっき着いたところ」
「いつもとなんか雰囲気違う?」将人が言った。
「いや、気のせいじゃない」と言って、佳穂は笑った。
「じゃあ行こうか」将人が言った。
 駅からバスで20分ほど揺られると、車窓からは湖が見え太陽の光で輝いていた。バスが湖の対岸まで架かる橋を渡ると美術館が見えた。海外の著名な建築家が建てたという建物は白い大きな巻貝を思わせた。
「いいところだね。湖なんて久しぶりに見る」佳穂が吊革につかまりながら言った。
「学校の課題が煮詰まるとここにきてぼんやりしてるよ。あのあたりで」将人が言った。湖から高台になっている土手に木でできたベンチが並んでいた。
「湖でぼんやりしてるまさちゃんって面白いね」佳穂が言った。

 美術館に入ると中はひんやりとして暗く、受付の机のライトが案内係の女性の手元を照らしていた。「チケット失礼します。いってらっしゃいませ」女性の声はエントランスの大理石のホールに響いた。
何枚か絵を見たあと将人は足を止めて言った。
「この有名な絵知ってる?」
「モネの睡蓮でしょ」
「そうそう、この絵好きなんだけど、何枚の睡蓮の絵は描いてるんだけど、この絵だけはさ、池に映る夕日の光がこの絵の構図の奥行きをなくして、夕日がまるで炎のように立ち上って、ずっと見てると意識が遠のいていくみたいに感じるんだ」
「たしかに太陽の光が強くて眩しいってなるかも。画全体のピンクと乳白色の色合いが私は好きだな」
「疲れたときはこの絵を見に来ると癒されるんだ」
「私も癒されたいな」
その後ふたりは精緻に描かれた宗教画や、形の不思議な立体物を見たり、浜辺の風景に晴れた空が鳥の形に切り取られている絵を鑑賞した。
美術館の湖が見える室外のテラスに座り、カフェでふたりはハムカツサンドとコーヒーを二つずつ注文した。冬空が澄み渡たり、鳥が湖の上を滑るように飛んで行った。佳穂の吐く息は白くなり、顔は寒さで少し赤らんでいる。
「思ってたより楽しいね。もっと堅苦しい雰囲気予想してたよ」佳穂が言った。
「みんなぶらっと来てるでしょう。絵なんて気楽に見ればいいんだよ」将人が言った。
「塩田千春の作品は世の中の息苦しさみたいなものを表現してるの?あれ私好きだな」
「なんか俺もあの作品みてると息苦しい、何か自由を奪われてるような気持になったよ」
「まるで私みたいだな」と、佳穂が言った。
「直也のこと言ってる?」
「それもあるけど、それ以外にも色々あってね」

 美術館をあとにしたふたりは湖の畔を散歩した。黄昏の光が湖をオレンジ色に染めた。
ふたりは黙って歩いた。
「この前の話なんだけど聞いてくれてありがとね。ちょっと気持ちがすっきりした」
「俺で良ければいつでも聞くよ」
佳穂が寄り添って歩いた。
佳穂の手が将人の手に触れると、自然とお互いに手を繋ぐ形となった。そのままベンチにふたり腰かけた。
ふたりはしばらく何も話さないでいた。鴨が飛び立ち湖面に模様を作っている。急に風が吹き、波立った。
 将人が佳穂の唇に触れた。
 将人が佳穂の肩を抱き寄せると、佳穂は将人の肩に頭をもたせ掛けた。それがとても自然なことであるかのように。
 夜、佳穂は将人の家に泊まった。ふたりは求め合い、崩れ落ちた。
 ひとつに重なった体は、やがて眠りにいざなわれた。
朝、将人が起きると佳穂の姿はなかった。「昨日はありがとう」とテーブルの上に書置きがあった。

 それから将人のところに佳穂からの連絡はなかった。美術館へ行った日から二週間過ぎた頃、支配人から佳穂が辞めたと告げられた。特に自らの方に非があった訳ではないだろう。最初に誘惑したのは佳穂からだったのだと将人は自分に言い聞かせ、罪悪感のようなものを振り払おうとしたが、無駄だった。むしろ最初からこれが彼女の目的だったのではないかという気持ちが急に起こった。つまり直也への当てつけとして。あてもなく夜の公園に散歩に行った。街灯の下大学生の男女が声を上げている脇を早足で歩いた。暗闇で横になったホームレスが寝る準備をして汚れた毛布を掛けようとしているのを見た。家で今まで吸わなかった煙草に火を点け、朝まで映画を見ていると灰皿が一杯になった。喪失感のただ中で彼女を忘れることは難しかったが、それでも天気の良い日曜日は、家の近くの沼地にイーゼルを立て、風景を描き写しながら、日々やり過ごそうと努力した。

 それから5か月後の日曜日、将人は同じ美大の友人の個展を見るために表参道まで足を延ばした。白い壁にかかったポロックに影響を受けた友人のいくつかの作品を見ていると、聞き覚えのある声がしたので後ろを振り向いた。そこには、直也と佳穂が友人と何か話している姿があった。佳穂が直也の横に立ち、直也より先に将人に気づくと一瞬「あっ」という声が今にも漏れ出そうな顔をした。直也がそのあとに将人に気づいた。
「おー、将人だ!久しぶり!お前も来てたんだな」直也が言った。
「久しぶり。主催者が美大の友達なんだよ」将人が言った。
「俺も共通の友達がいてクラブであの人のライブペイント見て刺激を受けたんだよ。今卒業制作で服作ってるから何かしら参考になるものがあればと思ってさ」
「確かに直也、前以上にファッションがアバンギャルドに変わってるよね」
「さすがに分かってるね」
「久しぶり」佳穂が言った。
「急に映画館やめるんだからびっくりしたよ」と将人が言った。
 将人が佳穂に話したいことは山ほどあった。
「将人は個展はやらないのか。お前がどういう絵を描いてるのか気になるな」直也が言った。
「この前まで風景画を描いてたんだけど、それも限界が見え出してさ。もっと現代アートにも重きを置かないとなって思って今必死に勉強してるところだよ。やっぱり絵で生活するとなるとそれなりに世間のニーズにこたえないといけないみたいなんだ」将人が言った。
「色々あるんだな。将人は落ち着いたというか、悪く言うとちょっと老け込んだようにみえるけど大丈夫か。将人今日は何してんの?もし暇なら三人で飯でも行かないか」直也が言ったが将人はその誘いに佳穂のよそよそしい態度を見てあまり行く気にはならなかった。
「悪いけど今度にするよ、また連絡してよ」と言って将人がアトリエを出る間際に佳穂と目が合った。それは何か言いたげな視線に思えて、何か言葉をかけたい気持ちに駆られたが、その言葉は口から出てはこなかった。
 帰り際アトリエの窓から中を覗くと、佳穂が直也に絵を指さして何か言っているのが見えた。

 「透明の舟」が上映されてから10日経ち、支配人の予想通り席は埋まらず、上映中止は決まっていた。将人は掃除が早く終わると、最後列の席に一人座りぼんやりと劇場全体を見渡した。
 ゆっくりと照明が落ちると客席は暗くなった。巨大スクリーンにモノクロームの大きな将人の顔が映る。そのあと向かい合う佳穂の顔が映る。表情はぼやけてしまって見えない。次のカットでは一艘の舟が霧の立ち込める湖を進んでいる。将人がオールを漕ぎ、佳穂は黙ってそれを見ているシーンが続く。
しばらくして舟は岸辺へ乗り上げる。将人が錨を下ろしている。それをじっと見ている佳穂。しかし、その顔はない。まるで、誰かがその部分だけをフィルムから切り取ったように。ふたりは岸辺へ上がると小屋に入る。中にはベッドが一つだけ置かれている。その上でふたりは眠る。朝になり眩しい光が小屋に差し込む。佳穂は「目を開けて」と将人に言う。「もう少し眠ろう」と言って将人はふたたび眠りに落ちた。どれぐらいの時間が経ったのか分からない。1時間か1年か10年だろうか。将人が目を覚ますと小屋の中に佳穂の姿はない。将人が岸辺へ行ってその姿を探すが佳穂はどこにも見つからない。舟と一緒に彼女も透明になったのだ。その時、カメラが上空で小屋の屋根と将人を映す。徐々にカメラが引き、小屋も、将人も小さくなっていった。カメラが引いて雲がかかってくると、画面が白くなり〈The End〉の赤い文字がスクリーンに大きく映った。将人がそのスクリーンに青いペンキをバケツごと垂らす。ペンキはだらりとスクリーンの下まで垂れる。そのとき将人ははっと目が覚めた。どうやら客席で寝てしまっていたようだ。
 結局、全ては流動性ではあるまいか、と将人は思った。過去も絵画や映画のように、心のどこかでひっそりと知らぬまに再生を繰り返しているのだ。だからこそ、今この瞬間をかけがえのないものとして固く抱きしめなくてはならないのだろう。佳穂との思い出が途切れ途切れの像として、いつの日かまた再生されるように。像は、世界の果てを旅をして、ふたたび将人の前に現実として、夢として現れるのだから。









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