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希薄

 外は雨がしとしとと降っていた。締め切ったカーテンのせいで、部屋は暗く、ごみ箱からこぼれた紙屑や、床にだらしなく落ちているベルトつきジーンズや、ビールの空き缶は行き場を失い、薄っすらと埃のたまったテーブルの上の白いコーヒーカップの底に、濃い茶色の跡が染みついていた。ぼんやりと暗い部屋の中、パソコンの画面の光だけが部屋の片隅を照らし、部屋中に秀樹のいびきが反響していた。いびきは一方的に不快な音を立てていた。部屋の外では、ずいぶん前から人間の営みが始まっている。主婦が片手を頭にかざして駆け足に青い透明なごみ袋を持って、ごみ捨て場の緑色のネットの中に入れ、すぐに家の扉をバタンと閉めた。黄色いレインコートを着た子供達が、引率の先生に連れられて横断歩道を渡り、同級生の待つバスの中に次々と入っていった。
 10時半ごろ雨脚が強まり、雨が窓を打った。その音で秀樹は深い眠りから醒めた。秀樹は時計を確認し、憂鬱さと無気力さを感じた。そして秀樹は一日の始まりに自分を否定した。秀樹にとって時間は一日一日をやり過ごす空っぽの器だった。貴重な時間に対してそのような考えを持つことに罪悪感を感じたが、無力な秀樹にはどうすることも出来なかった。上下グレーのスウェットの寝間を着た秀樹はソファに座り込んだ。テーブルの下に並んだビールの空き缶の中から中身の入った炭酸の抜けたビールを選び飲んだ。外の世界からの非難の届くことのないこの部屋の暗さに秀樹は安堵した。問題は今日という一日をいかに過ごすかということだが、考えれば考えるほど、獏とした不安から時間を無駄にした。秀樹はテレビをつける。ワイドショーや、昔の映画の再放送が、現在停止した人生をいっとき忘れさせてくれる。夕方になると、日本銀行総裁の顔が映り、次に消費税引き上げのニュースをアナウンサーが読み上げた。その後、帰宅する人々が満員電車に押しこまれるところが画面に映る。言わばそれらは、社会を構成する大きな部分だった。現在の秀樹は、社会と嚙み合うことのない社会の埒外にある部分だった。秀樹がテレビを見ることは、ひきこもっている自分自身を細い糸のようなもので社会に結び付け、無意味な一日を終わらせてくれる唯一の方法だった。
 食事は簡単なものをつくって食べた。スパゲティーを茹でて100均のトマト缶をかけて食べたり、ラーメンに野菜を入れてすすった。岩手に住む親からの仕送りは、月に家賃込みで10万程度だったので贅沢は出来なかった。親にはドラッグストアでアルバイトしていて給料が少ないことになっていた。生活保護も考えたが、行政に頼ることに秀樹は抵抗があった。以前、テレビで百万人のひきこもっている同じような生活をする人達の生活のドキュメンタリーを見た。その人達はいたって普通の秀樹と同じ人間だった。部屋や、着る服などはこざっぱりしていたが、虚ろな顔つきと、光の消えた目は秀樹と同じだった。百万人の同じ生活をする境遇の人がいるということは、表現しがたい孤独の生活を送る秀樹にとって、一抹の光でもあった。毎日、時間の経過を、部屋から外の空の様子を眺めることで感じた。しだいに日も暮れていった。夜は、秀樹の気分を楽にさせた。一日の無意味な人生が終わることへの安心感。睡眠という全ての苦痛を忘れさせてくれる行為。夜、毎日のように近くのコンビニへ歩いて行った。コンビニは社会を象徴するものであり、秀樹はコンビニで買い物をする間、社会に包み込まれるような感覚を味わった。日々、コンビニで安いビールを買った。店員と交わす会話が唯一生身の人間との会話だった。
 雨はすでにやんでいた。家の扉を開けると、湿気を含んだ生ぬるい風が秀樹の住んでいるアパートに吹き、秀樹は大きく息を吸った。コンビニへの行きすがら、自分の無能さをひしひしと感じた。社会に奉仕することも、家族に奉仕することも、自分を幸せにすることも出来なかった。秀樹は早足になり早くコンビニに着きたい気分だった。女子高生がふたり反対側から歩いてきて秀樹を軽蔑したような目で見た。秀樹は上下スウェットという格好に茶色いビニールサンダルを履いていたが、最近では格好に気を配る気力もなかった。人が出歩かない時間を見計らって出てきたつもりだったが、女子高生の他に、帰宅途中のサラリーマンや主婦が通りを歩いていた。コンビニまでの直線道路に等間隔の電灯の明かりが灯り、暗い夜道をよりいっそう暗くしていた。遠くを見ると、建設会社が山に建てた集合住宅の明かりが見えた。外から自分がいわゆるひきこもりの人間であるなんて分かるはずもないと秀樹は考えていたが、周囲の人間は、秀樹を警戒している様子に思えた。いや、もしかしたらそれすらも秀樹の考え過ぎで、周りの人間は秀樹を透明な人間として捉え、姿も形も見えないのではないか。コンビニの駐車場に車は止まっていなかった。虫取りのための紫色の蛍光灯が、時々虫が当たるとバチバチと音を立てていた。秀樹が店内に入るとチャイムが鳴り、光が眩しいほどに店内を明るくしていた。今日の雨で入り口のマットは濡れていて、床にも少し雨が跳ねた跡があった。若い男の店員が、ひとり毛ばたきでカー用品や、携帯用品に積もった埃をはらっていた。雑誌売り場は、雑誌やムックが整然と並び、秀樹は週刊誌を開いた。そこには、議員が未成年と援助交際をしているニュースや、芸能人と一般人がホテルから出てくるところの白黒の写真が、短い文章とともに載っていた。巻頭の写真ではテレビに多く出演しているグラビアアイドルが白い砂浜横たわりこちらに微笑みかけていた。秀樹は、近頃何に対しても興味を持つことはなく、ただ冷静な自分を別の地点から観察しているようだった。酒のコーナーまでの導線に位置しているから、ただここで立ち止まっただけのことだった。分厚い漫画を何冊かめくって、しばらく時間をつぶした。一台の黒いスポーツカーが黄色っぽいライトをつけて駐車場に停車した。車内から少し柄の悪い男女が降りてきて、中に入って来た。女の方は大分酔っているようで大声で男の方に絡んでいた。「おめえ、さっきといってることと全然違うじゃねえかよ。おめえの兄貴なんかのめんどうなんか見らんねえんだからな」男女はドリンクの冷蔵庫へ向かい、何本か酒を選びかごに入れ、冷凍食品をいくつか買ってから、騒々しく出て行った。また店内は静かになり、店の聞きなれた陽気な音楽だけが少し店内を明るくしていた。秀樹はこの静けさが好きだった。コンビニには店員と秀樹の他に誰一人おらず、このコンビ二を支配しているような気分になった。それは秀樹の今の境遇から来る一種の虚栄心だった。
 ひと通りの雑誌に目を通したあと、酒のコーナーに行った秀樹は、一番下の棚にある安いビールを一本手に取ってレジへ行った。店員がすぐに駆け付けてきて「いらっしゃいませ」と言いレジを打ったが、秀樹の方を見て、少しむっつりとした表情をしたので、秀樹は焼き鳥の皮を一本追加した。声がうまく発声できず、落ち着かない態度だった自分に腹をたてた。「トイレ借ります」と店員に言ってトイレへ向かった。男子トイレは扉は赤く使用中となっていたので、しばらく待った。すると、中から男が出てきた。黒い長い髪に赤いバンダナをして、黒いレザージャケットを着て、顔を覆うようなサングラスをつけていた。男は颯爽と店を後にした。秀樹がトイレの扉を開けると、汚い薄緑の便所が目の前に現れた。隣の大の便所では、げえげえ吐き戻している音が聞こえてくる。一瞬、落書きの書いてある鏡に映った自分を見た。太った無精ひげの青ざめた秀樹がいた。入って来た方とは逆側の便所の扉を開けると、天井のキラキラしたミラーボールの光で目が眩んだ。大音量のギターのノイズが秀樹の耳をつんざいた。ミラーボールはぐるぐる回っていて、それを受けた白い光が、白と黒のチェック柄のフロアに動く細かい模様を作り、赤、青、黄色のスポットライトも不規則にフロアを照らしながら、フロアにいる熱狂した人々の顔を赤や青や黄色に照らし出した。観客は歓声を上げて、ステージの方に拳を突き出しているものもいれば、タオルを頭上でぐるぐる回したり、両手を頭上高く上げて飛び跳ねているものもいた。フロアの中央では五人の男女が付近の客とぶつかりそうになりながらも輪になってぐるぐると笑い合いながら回っている。フロアはむっとした汗臭さと酒の匂いに包まれていた。フロアの先にステージがあり、そこに3人組のバンドが飛び跳ねるように演奏していた。ギターはリズミカルに軽くコードをかき鳴らし、ドラムはタイトかつ情熱的に叩き、ベースはうねるように音楽と一体になった。ステージの両脇にある大きなスピーカーから大音量で音楽が流れ出てくる。ステージのはす向かいにドリンクカウンターがあって、酒のボトルがライトアップされて奥まで並んでいた。黒いジャケットを着た無表情なバーテンがカウンター越しの男女の客にジンをグラスに注いでいるところだった。ステージとは反対側の光が届きにくい暗がりにテーブルと椅子のセットが三脚づつ並んでいて、そのひとつに女がふたり腰かけ、フロアの方を見ながら笑いながら顔を近づけひそひそと話をしている。秀樹は、観客の最後列の方からステージを眺めた。ステージ上の三人は、秀樹の後ろからのサーチライトで照らされ、頭上の赤、青、黄色のスポットライトも曲に合わせてステージに光を投げる。一瞬、すべてが青い光に包まれたかと思ったら、次の瞬間にはパッと白い光がフロアを包んだ。ステージ上の三人が観客を煽ると、観客はまた熱狂し頭を上下に振った。演奏が終わり三人組はステージを後にした。次に別のバンドがステージに現れた。秀樹の背後を先ほどの三人のバンドメンバーが通ると前方の観客達が後ろを気にして振り返る。通り際、目が合った。「お前今暇か」と金髪でショートカットの若い男が聞いて来たので、「ええまあ」と内心の驚きを隠し言った。男はにやりとして「それじゃあ一緒に楽屋へ来ないか」と秀樹を誘った。秀樹は悪い予感がしたが、それを断る勇気は持ち合わせていなかった。秀樹は三人に連れられて楽屋に入った。
 楽屋は煙草の煙が充満し、壁は今まで出演したであろうバンドのポスターで一面埋め尽くされ、ポスターとポスターの空いた隙間に、多くのバンドのサインが黒いマジックペンで書かれていた。「まあここへ座れよ、兄貴」と言って三人は赤いソファに深く座った。秀樹も仕方なく遠慮がちに浅く腰かけた。金髪の男の隣には、短い黒髪を逆立て、肩に雷のようなタトゥーが彫り込まれた男が先ほど使ったベースを無言で丹念にタオルで拭いていた。ふたりのテーブルを挟んだ反対側には、長い黒髪にパーマをかけた三人の中で一番年長の男が、ソファに寝ころび、煙草に火をつけて煙を宙にむかって輪っかにして吐き出していた。
金髪の男が言った「あんた歌詞かけるか」
「歌詞?」
「そう歌詞。実はな今レコード会社の奴が来てて、俺たちにとって大チャンスだから、いったんさっき俺たちの出番は終わったんだけど、このあともう一度やろうって話になってな。でも俺たちインストバンドだし、何よりも全員馬鹿なもんだから歌詞なんて全然書けなっくてなあ。だからちょっと頭の良さそうなあんたに今頼んでるってわけさ」煙草を吸っていた男が少し笑いながら秀樹の方を見た。
「別にただで頼むってわけじゃないぜ、あとでギャラの中から払ってやるから安心しろよ。その金でキャバクラでもなんでもいけばいいだろ」と金髪の男は笑いながら秀樹の全身を見回し言った。
「それは分かったけど、まず何か音楽がどんな感じか分からないと歌詞なんて浮かばないじゃないですか」
「デモ?ああ、デモならあるよ」と言って金髪の男はポケットからスマートフォンを取り出してイヤホンをこちらに渡してきた。音源を聞いた。
「こう、メロディックななかに歪むギターが絡まって、ドラムが激しく打つような曲さ、なかなかいいだろ」と男は言った。「ええ」と言わざるおえなかった。明らかに秀樹の趣味ではなかった。
「それじゃあ俺たちちょっと外に出てくるから頼んだぞ」と三人は顔を見合わせ、互いの体を軽くたたき合って外へ出て行った。秀樹は一人になって考えた。
「俺はさきほどコンビニにいたはずだ。だが今はバンドマンに歌詞の依頼をされている。俺は死んだのだろうか。それとも夢でも見ているのか」
目の前の机の上にボールペンと紙が一枚置かれていた。秀樹は何も考えず機械的に書き出した。
小さい頃
家の屋根は赤かった
人生はキラキラ輝いて
あの子はかわいかった
彼女の髪はゆらゆら
ゆらゆら揺れて
自転車のカゴに
メロンが入ってた

ああ楽しい思い出の日
忘れられちゃったね
ああ楽しい思い出の日
もう戻らない

20年後に
ぼくは隠れた
みんなに見つかると大変だからね
こんなことになるなんて!
電車に乗って遠くに行くよ
そこから君に手紙をだすよ
きっと君のお母さんに
捨てられちゃうけどね

ああ楽しい思い出の日
忘れられちゃったね
ああ楽しい思い出の日
もう戻らない

 川に照り返すキラキラ輝く太陽を秀樹は想像して早く太陽にあたりたいと思った。
しばらくすると、三人が煙草の煙とともに入って来た。
「兄貴歌詞できたかい」と金髪の男が言ったので、
「ここに置いておきますね。実は用事があってそろそろ出ないといけないんです」と言った。「おい、兄貴まだちょっと演奏が…」話の途中で楽屋を出た。秀樹は今来た道を引き返し、下手な白いウサギのグラフィックが書かれたトイレの扉を開けた。さきほど吐き下す音がした便所は静かになっていた。来たときの扉を開けた。
 扉を開けるとコンビニの電灯に再び目が眩んだ。コンビニを出るときにチャイムが鳴った。店員はこちらに気づいていない様子だった。秀樹は来た道を戻り、部屋へ入った。買った酒は飲まずに、すぐに布団へ入った。眠りがいざない、いつの間にか深い静寂の中にいた。次の日の朝、いつものように10時半に目が覚めた。静かな朝だった。太陽の光がカーテンから漏れ出ていた。秀樹はカーテンを開けて窓から新鮮な空気を部屋に入れた。汚い部屋には変わりはなかったが、太陽の光が床に当たり、それは何か希望を感じさせるものだった。ベランダに出て秀樹は全身に太陽を浴びた。玄関を開けると空は晴れ渡り、紅葉したケヤキの葉っぱが、風に吹かれひらひらと落ちて行くのが見えた。ちょうど隣の子供が目の前を走り去って行った。秀樹は深呼吸した。とりあえず川沿いを散歩してみようかと思った。いつの間にかひとり笑みがこぼれていた。この瞬間、人からどう見られているのかということはまったく気にしていなかった。社会の部分が再び動き出した。


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