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蠍の尻尾

 知らぬが仏とは昔の人はよく言ったものだ。一度その魅惑的な尻尾を見つけたら、穴の中から引っ張り出さなくては気がすまない。若さとはそういう事だ。しかしそんな愚にもつかない好奇心など、どこかの駐車場のごみ箱にでも捨ててしまえばいい。足で踏みつけてそいつが二度と頭を持ち上げて、こちらの隙を見て微笑みかけるのをやめさせなくてはならない。黄金のアークをひとたび開けてしまったら最後、もちろん知ってるだろうその中から亡霊たちが恐ろしい顔をして僕らを襲ってくることを。
もし誰かが駅のホームで突如巨大な生物に襲われたら、私たちは心理学でいうところの「戦うか、逃げるか」を選択しなければならない。ほとんどの場合一目散に逃げることがふつうだが、勇敢な戦士は立ち向かう選択を迫られることもあるだろう。なぜならそいつは君の腹を引き裂いて、臓物を引っ張り出して、鷹に食わせるなんてことをやってのけるからだ。そうされたくないのなら時には金属バットをフルスイングしてそいつの顔面を粉々にしなくてならない。

 そんなわけで、今から約十年前の蝉の鳴き声が公園中にうるさいほどに響き渡っている夏の日、慎吾と広大は大学の授業が終わってスケボーの練習をしていた。その板が路面に当たる時に出る音は蝉20匹分に匹敵するほどうるさかった。公園では油の付着した汚い銀髪のホームレスがベンチに仰向けになり、サラリーマン時代の夢を見ていた。白いTシャツ姿のふたりの男が地べたに座り、囲碁に熱中して、その熱気は数人の同じ種類の人間を巻き込んでいた。
「お前そんなものも出来ないのかよ」広大が勝ち誇って言う。
「いやいやこれスイッチだから、俺がレギュラーだって知ってるだろ。残念でしたー」慎吾が言うと、広大はむきになって滑り出し、飛び上がり一回転板を回したが、気を抜いた瞬間に重心が後ろに傾いてバランスを崩し、板の後方に両足が着地し、慎吾の体は宙を浮いて尻から地面に落ちた。板はその瞬間慎吾の足から離れ、ひとりでに走り出すと、速度を落とすことなく囲碁に衝突した。白と黒の無数の石が放物線を描き、路上に散らばった。囲碁をしていた男が日に焼けた皺の多い顔でこちらを睨み、板を広大の方に放り投げた。
「あんな地べたでやってる方が悪いんだろ。こんな真昼間から」広大が軽蔑を交えた視線を男たちの方へ送って言った。囲碁に打ち込んでいた男たちは太陽で輝く白と黒の碁石を拾っていた。
「場所変えない?なんか醒めちゃったな階段飛ぼうぜ」慎吾が言った。

 その場所はバスケットコートを囲むようにコンクリートの観客席が三段並び、観客席と観客席のあいだに階段があって、座席の下には所々黒いスプレーで落書きがあった。
「広大ちょっと写真撮ってくれない」慎吾は到着するなり板を手に持ち言った。
 広大は頷き、階段の下でカメラを構えた。慎吾は階段に向かってスピードを上げ、階段の手前で板を弾くと、次の瞬間、慎吾は宙を高く舞った。広大はカメラのシャッターを切った。慎吾が階段の下に着地するとバスケットコートの方へ滑って行った。「いいね、いい写真撮れたよ」階段の下で写真を確認しながら広大が言った。確かにその写真は良く撮れていて、仮に雑誌に飾られていたとしても遜色なかっただろう。階段の手すりの上を慎吾がオーリーで越えている。背景には高いビルと公園のパブリックアートが映り込んでまるで一枚の絵のようだ。慎吾は満足そうな笑みを浮かべ言った「じゃあそろそろ帰ろうか。いい写真撮れたし」
「お前自分が良かったからってずるいぞ。もう少しやろう。俺もまだ今日何も技決めてないんだから」広大が言った。
「まあいいじゃん。広大の家行ってスケボービデオでも見ようぜ」慎吾が言った。
 その時、男の図太い声がした。「何やってんだ!」バスケットコートの裏手から太った警備員が赤灯を持って出てくるのが見えた。「めんどくさい奴来たなあ。逃げるか」広大が言った。「そうだな」慎吾が頷く。ふたりはスケボーに乗ると、駐車場に向かってスピードを上げた。後ろを振り向くと警備員が息を切らし、腹を揺らしながら走って来る。「おい、お前ら!」警備員が叫ぶ。二人は白いプリウスに乗り込んだ。「早く、早く!」と慎吾が言う。警備員は必死の形相で諦めることなく慎吾達の方へ走って来る。広大がキーを回すとエンジンが音を立てた。「おい、お前ら待て!」警備員はプリウスの窓ガラスを手で叩いた。プリウスが走り出し、車内から駐車場を見ると、警備員がひとり佇んでいた。

 慎吾が、広大の部屋の緑と黒のストライプの入ったソファに座りながら、スケートビデオを見ている時、髪を耳元にかけながら言った。
「スケボーって本当に社会から嫌われてるよな。確かに縁石に乗ったり階段飛んだりするのが迷惑だって言うのは分かるんだけれどさ。騒音だったら車はどうなんだって話になるし、俺たちも階段飛ぶ時なんかは周りに人がいないか気にしてやってるしな。階段が人が上るために作られたって誰が決めたんだ。社会は疑うものって誰か言ってたっけ」慎吾は飲んでいたビールをテーブルに置いた。
広大は眉間に皺を寄せ今慎吾が言ったことを考えた。キャップを脱いだ広大の坊主頭は頭まで酒で赤くなっている。「つまり同調圧力って奴だな」広大が言った。
「マスコミが取り上げるせいか、滑ってると嫌な目に合うことが多くなってきた」慎吾がビデオのリモコンを取って早送りにした。
「ちょっとストップストッープ!このスケーターお前知ってる。最近出てきたショーンモルトって奴。かなりやばいよ。フルプッシュで15段のステアオーバーKするんだから。着地も完璧」広大が興奮した様子で言った。
「あ、俺も知ってるわ。やばいねあいつは、お前もスイッチやれよ。レギュラーだけやってても大会で評価されないぞ」と、言って慎吾はビールを流し込んで缶を潰した。慎吾はソファーに寝そべりながら、壁に貼ってあるポスターを見ながら言った。
「あのマイクキャロルのバックスミスのポスター最高だね」
「あーあれね。あのポスター小学生の時からあるよ」広大が言った。
「この曲なんだっけ」慎吾がビデオを見ながら言った。
「あれだろ、ECHO&THE  BUNNYMENの「The Killing Moon」確かドニダーゴって映画にも使われたような気がする」広大が言った。
「あそこの埃被ってるのって望遠鏡じゃん」慎吾が窓際を指さし半分寝そうな声で言った。
「子供の頃は好きだったよ望遠鏡で流れ星見るの、文句あるか」広大が言った。
「意外な趣味だねぇ」慎吾は目をつむった。
「ところで、明日どうするよ、だらだらする以外に」慎吾が肘を枕にして言った。「親の車が空いてるからドライブする?」広大言った。「まあいいよ。ちょっとキモイけど」慎吾が言った。

 次の日の14時頃、広大が慎吾が住む団地——築50年、扉は薄緑色で、薄暗い―—の駐車場に車を停めていると、慎吾から「しね」と書かれたメールが送られてきたので、広大は車のドアを開けた。慎吾がベランダに出て身を乗り出し、こちらに向けて中指を立ててるのが見えた。「早くしろよ!」広大が言った。「ちょっと待ってて、便所行ってから行く」と、慎吾が言った。
 慎吾が団地の階段を降りて夏の日差しの眩しい駐車場に出て来た。大きな欅の木陰に鉄棒やシーソーがあるが、鉄棒のペンキは剥がれ落ち、シーソーの木は腐りかけていた。子供がいる様子はない。
慎吾が白のプリウスに乗り込み、車は駐車場を出た。
 「どこ行く」広大が言った。バックミラーの成田山のお守りが揺れている。
「とりあえず、駅の方向かってみるか、滑る場所も見つかるかもしれないから」慎吾が言って煙草を取り出した。
「お前この車で吸うつもり?」広大が言った。
「まさか禁煙なの?お前の親まじめだよな」と、慎吾が言って煙草をしまった。
「お前最近なんかないの?」しばくして慎吾が広大に訊いた。
「なんかって?」
「色恋みたいなやつ」慎吾が言った。
「ここでそんな話する?」
「なんかSNSで知り合ったとか言ってた女はどうなった?」
「その子とは一度会ったきりだよ。メールしても返事なし。確か写真見せたよな、コンサバみたいな感じの顔可愛い子」
「そんな汚いパーカーにキャップ被ってデート行くからじゃないの」慎吾が言った。
 車が駅のバスロータリーをぐるりと回ると、バス停の方から全身黒ずくめのゴシックファッションの女が二人歩いてきた。ひとりはサングラスを頭にかけ、もうひとりは鼻にピアスをしている。
「お前ちょっとあの二人に話しかけろよ」慎吾が言った。
「嫌だよ、お前が行けよ」
「じゃあ俺が行くから見とけ」
「ねえねえ、お姉さんたち今何してんの」慎吾が窓を開け言った。
女二人はくすくす笑った。「えっ、歩いてるけど」サングラスの女が言って、ふたりは腹を抱えて笑った。
「まじうけんだけど」鼻ピアスの女が言った。
「今暇なら、俺たちとご飯でもいかない?」
「この子彼氏いるから無理ー!」サングラスの女が言った。
「じゃあ連絡先だけ教えてよ」と慎吾が食い下がる。
「いや、今彼氏待ってるんで」と鼻ピアスの女が言って、ふたりはまた腹を抱えて笑いながら、駅の改札の方へ歩いて行った。
「お前全然ダメじゃねーかよ!」広大は慎吾の右腕を軽く殴って言った。
「興味ねえよ、ブス」と慎吾は言った。
「口直しに海でも行くか。水着のチャンネーでも見に行こうぜ」広大が言った。

 海は夏の暑さにも関わらず閑散として、浜辺にパラソルが三本立ち、カラフルな水着というより砂の黒さの方が目立っていた。波打ち際に母親と子供が貝を探していたが、子供の方が見るからに飽きてしまっていた。それを見た父親はパラソルを畳みだした。海にはサーファーが二人波待ちをしていた。
「チャンネーどこにいるんだよ、広大君」慎吾が車から海を見ながら言った。
 「おかしいな、前来た時はけっこう人多かったんだけど。あれ見ろよ」と、広大が指さして言った先には「遊泳禁止」と書かれた赤い旗が強風に吹かれてはためいていた。砂が駐車場のアスファルトの上を砂紋を作って吹いている。
「せっかくここまで来たんだから、少し海に浸かって来るわ」慎吾が言った。
「お前やめとけよって。けっこう波高くね」広大が言った。
「遊泳禁止だなんて言っても、サーファー入ってるんだから大丈夫だろ」慎吾が言う。
「じゃあ入ってきなよ。俺は車で待ってるからさ」
「分かった。じゃあな」と、慎吾が言って服を脱ぎ、黒いパンツ一枚になると、海の方へ歩いて行った。
 広大は車のシートを倒し、JackJhonsonを鼻歌交じりに聞きながら、しばらく携帯でゲームをしていたが、飽きてきたので海の方を見た。
 浜辺には白波が立つばかりで誰の人影もなく、浜辺で遊んでいた人も帰ったようだった。広大は車から浜におりて、見渡してみたが慎吾の姿はどこにも見当たらない。
 「おーい慎吾ー!」広大が沖に向かって叫んだ。砂混じりの風が広大の顔に強く吹きつけた。海は轟き、波は高く飛沫をあげていた。広大が一人砂浜に佇んでいると、遠くの海に慎吾の右手が波間に上がっているのが見えた。顔が海面に浮かんだ。「慎吾―!」広大が叫ぶ。慎吾は顔をこちらに向けたが、波が慎吾を巻き込み見えなくなった。「慎吾―!」広大は叫び続けた。ふたたび手が見えたがすぐ見えなくなった。一瞬のことだったのか、長い時間が経過したのか広大には分からなかった。沖の方から一隻のサーフボードが現れ、慎吾の腕を掴んだ。サーファーは慎吾のぐったりした体をサーフボードの上に乗せ、浜辺に運んだ。広大が駆け足で慎吾のもとに向かった。「おい、お前こいつの友達?こいつ意識なくなってるから早く人口呼吸しないと死ぬかもしんねえぞ」サーファーの男が大声で言った。ふたりが慎吾を海から引き揚げ、砂浜に寝かせた。サーファーの男が慎吾の口に自分の口を当て数回息を吹き込んだ。慎吾の肺が風船のように膨らんだ。男が固く手を組み慎吾の心臓に当て、強く何回も押しつけた。突然、慎吾の口から海水が飛び出し、大きく目が見開いた。慎吾の激しい呼吸の音が聞こえた。それは「ヒュー、ヒュー、ヒュー、ヒュー」と水の溜まった肺が立てる音だった。「おい、慎吾聞こえるか」広大が言った。慎吾は目をうっすら開け、しばらく広大の方を見て「聞こえる」と言って激しくむせた。

 慎吾はぐったりとプリウスの助手席に体を倒し、虚ろな目は空を眺めガタガタと体は震えていた。
「お前ほんとに病院行かなくて大丈夫なのかよ、後遺症みたいなことってあるんじゃないの?」広大がハンドルを切りながら言った。
「大丈夫だと思う———俺もしかしたらあの時一瞬死んだのかもしれない」土色の顔をした慎吾が言った。
「死んだ?」広大が言った。
「冗談とも、本気とも言えるんだけど、あの時、海の中で目をつむると、体が暖かくなって、まるで自分が美しい魚になったような気がしたんだ。それから、時間が一瞬か永遠か分からないような感覚になって、とても気分が良かったんだ」
「お前何言ってんだよ。今言ってること意味不明だよ」
「あのままずっとあそこにいたいような気持ちだったんだけどお前の声が聞こえてその時行かなくちゃって思ったんだ」
「そうか…」広大が言った。
ふたりはしばらく黙った。
「ちょっとなんだか変な声が聞こえてこないか」慎吾が言った。
「いやとくには聞こえないけどな」
「なんだかぶつぶつと早くしやがれ遅く走ってんじゃねえとか、こっちは急いでんだとか―――なんだこの声は」
 信号が青になったとき前の黒いバンが加速して行った。
 右車線を走っていた青いBMWが慎吾たちの乗る車の前に割り込んで来た。
「今度は男と女の会話だ、今日は楽しかったねとか、帰ってから何食べようかとか」
「俺には全然聞こえないよ」
「いったいなんなんだ。ついに頭がおかしくなっちまったかな」
「ちょっと待てよ……後ろのプリウス…若い奴らが乗ってるけど、俺もあんな風に遊べてたらなあ……って男が言ってて…女の方が…それって結婚生活に不満があるって意味…いや違うよ…何言ってるんだよ…って聞こえてくる」慎吾が言った。
「それって俺たちのことか?」
「前の車後ろに赤ん坊乗ってないか。なんか子供の声が聞こえるんだ。おぎゃーおぎゃーって、それからママの所へいらっしゃいって…」
 BMWの窓ガラスを後ろから見ると助手席に乗った女が後部座席に手を伸ばしているのが見えた。
「お前もしかして前の車の会話聞こえてるのか?」
「もしかしたら聞こえてるかもしれない」

 慎吾の病状は三日ほどで良くなった。土色の顔はすっかりもとの色白に、濃かった隈も消えていた。あの臨死体験により、慎吾の体は無数の分子に分解され、再び結合されたかのようだった。
 慎吾の能力が発出したあと、ふたりは退屈することなく時間が許す限り白いプリウスに乗って街に出た。ある日はカップルの車の後について行って一日中会話を盗み聞きした。またある日は老人ホームへ入居者を送り届けたあとの福祉車両の中で、運転手がヘルパーとある老人についての喧嘩を繰り広げているのを聞いていた。また別の日にはタクシー運転手がラジオから流れる「上を向いて歩こう」を大声で熱唱しているのを聞いた。その大勢の中に「ちっ」とか「クソっ」とか「早くしろよこの――野郎」のような悪態を浴びせている輩は残念ながらかなりの数いた。

 最後の光が水平線に落ちる間際に空は紫と橙色に染まり、幹線道路に渋滞している車のバックライトが一キロ先の信号まで連なっていた。今日もふたりは慎吾の驚異的な(海神から授けられた)遊びをしていた。プリウスの前にはシルバーのクラウンが信号待ちをしていた。
「前の車なんだって?」広大が言った。
「19号車了解…現場向かいます…19号車現場向かいます…男が二人何か会話してる。…やってられねえよ…また俺たちかよ…って」
「他に続きがあるぞ、容疑者は…場所は田所…」慎吾が言った。
「田所って地名このあたりだな。それ覆面パトカーかなんかじゃないか、無線の音か何か聞こえるか」広大が言う。
「ああ、ざあざあノイズがして、女の声で何か指示してるみたいだな」
「やっぱりそうだ、覆面だよ」
「待て、話が続いてる……その場所に行ってたら時間に間に合わなくなるぞ……確かにあいつら怒らせたらとんでもないことになるからな……その件は他の奴らに回しとけ……いったい何の話だ?」
「ちょっと面白そうだから付いて行ってみるか」広大が慎吾の顔を見て言った。
「どうなっても知らないぜ」と慎吾が言った。

 グレーのクラウンは国道を進み歓楽街の路肩に車を止めた。広大たちもクラウンの後ろに距離をとって車を止めクラウンの様子を伺った。クラウンのドアが開くと中からふたりの男が韓国料理屋——顔の真っ赤な孫悟空や孔雀が入り口を飾っている――へ入った。ふたりは店主と何か話しているようだったがしばらくするとふたりともキムチの袋を持って出てきた。ひとりは背がひときわ高く、がっしりとした体格で、無表情な顔をクラウンの方へ向けていた。もう一人は背は低く、髪をオールバックにし、辺りを注意深く見まわしている。ふたりはクラウンのドアを開けると車内に入った。「なにか言ってる?」広大はハンドルを握りながら慎吾に訊いた。「いやとくには……あの店の女の子紹介してもらえませんか……って若い方の男が年上の奴に訊いてるな」「女の子って言ってもあの店には今店主一人だけだっただろ」「ああ、なんだろな」

 歓楽街を抜けて小さな町へ向かう国道を走ると、その先には大きなダムがあった。クラウンは国道を逸れて、一車線道路に入りダムに架かった緑色の大きなつり橋へ向かっている。
 広大は赤いバックライトを見失わないように追いかけたが思いのほかクラウンのスピードは速く強くアクセルを踏み込んだ。
「もうちょっと距離開けないとばれないか」慎吾が言った。
「分かってるって、ばれたって素知らぬ顔して、同じ方向だったんだって言えばいいんだろ」広大が言った。
「俺はめんどくさいことはごめんだよ」慎吾が言った。
「何今更びびってんだよ、なんか海で溺れてからちょっと気が弱くなったんじゃないかお前」広大が言った。
「ちょっとましな人間になってことだろ」慎吾が言った。
「へえ」広大が言った。

 クラウンはスピードを落としつり橋の中ほどで路肩に車を寄せた。
 プリウスはつり橋の手前で止まりライトを消した。
「ふたりとも何も喋らないな」慎吾が言った。
しばらく待つと、つり橋の向こう側から来る車のライトがだんだん大きくなってクラウンの真横に着けた。車は黒いレクサスで車体はぴかぴかに磨かれている。
 男がレクサスから出るとクラウンのドアを開け車内に入った。暗くてその姿は見えなかったが、黒い影が早足に移動して行ったように見えた。
「声が聞こえてきた………元気だったかよ……それでせかしてなんだが……見せてもらえるか…………今回は書類を偽造するのに手間取っちまってな、とりあえず今日一キロ、残りの三キロは来週でいいか………ああ、かまわない。ちょっと試させてもらうぞ……何か袋を開けてるみたいだ、バリバリ音がする…………アァ!じゃあ約束通り200万でいいな……ああ……また来週よろしくたのむぞ、場所はここで………」
 男が黒いレクサスに乗り込みライトをつけ、ゆっくり走りだした。
 「おい、こっちに向かって来る」広大が言った。
ふたりは身を低くした。
 レクサスが走り去って行った。去り際に広大がレクサスの運転席を見たが顔は影になって見えなかった。
 「俺たちとんでもない話聞いてしまったんじゃないか」広大が言った。
 「……神田、後ろのプリウスのナンバー控えとけ……さっきからつけられてる……ええ、私も気づいてました相澤さん……おい、まずいぞ」慎吾が言った。
 「奴らにばれてる」広大は慎吾を見て言った。
 グレーのクラウンは音もたてずにそのままつり橋の向こうへ走り去って行った。

 最初はショッキングな事件も次第にその形跡を薄くしていく。慎吾と広大の記憶からも、社会に裏切られたという感情から受容の段階を経て、徐々に落ち着きを取り戻しつつあった。それに彼らがあの事件を取り扱うには、彼らの社会的地位、個々の能力からみても余りに無力であった。
ふたりはもとの生活へ戻っていった。

 あの事件から一か月後、慎吾が布団の上でスケボービデオを見ている時、家のチャイムが鳴った。鍵穴から外を覗くとそこには背の高い、警察官が立っていた。その瞬間慎吾は鳥肌が立ち体は硬直した。扉一枚挟んでいるのはあの夜の相澤という警察だった。顔はあばた面で顎はえらが張り無表情だった。「どなたかいらっしゃいませんか」太い声が聞こえてくる。
慎吾は声を潜め、自分の存在が扉越しに伝わっていないことを祈りながら、相手の出方を待った。「遠山慎吾さんのご自宅はこちらでしょうか」ふたたび声が聞こえる。無言が続いた。諦めたのか相澤が廊下を歩く足音がし、階段をコツコツと降りていく音が聞こえた。
慎吾がベランダから下の駐車場を覗くと、相澤はパトカーに乗り込み団地の坂を下って行った。

 次の日、慎吾はスケートパークで広大と落ち合って、相澤が家に現れたことを伝えると、広大は表情が暗くなった。
「すっかりあのことは頭から消えてたんだけど、急に現れるとは思わなかった」慎吾が言った。
「俺たちこんなところで呑気にスケボーなんてやってる場合じゃないんじゃないか」広大が言った。
「でも相手は警察だぞ。もし警察署に駆け込んだとしても、奴らがいるかもしれないからな」と慎吾が言った。
「俺たち殺されるのか」
「馬鹿、思いつめるなよ」
 慎吾たちがスケートパークを出ようとすると入り口で管理人に止められた。「こちらにお名前と電話番号と住所を書いてください」と、管理人は言って白い紙を二人に手渡した。「でもこの前来たときはこんな住所書くなんてなかったはずだぜ」広大が言った。「そういう決まりになりました」ひょろっとした管理人が言った。「書かないとどうなる?」慎吾が言った。「それはこちらが困ります。私が上から言われますので」管理人が言った。「個人情報は書きたくないんだ。悪いけど書かないでいいか」慎吾が言った。「まあ次からは利用はご遠慮させていただくかもしれませんね」管理人は言って、管理人室の中へ消えていった。「なんなんだ今のは」広大が言った。
 
 追跡されていると悟ったふたりは車をスケートパークに駐車し、地元の駅まで電車を使うことにした。
 ふたりがホームの待ち行列の最後尾で電車待っていると、くたびれた赤と白のボーダーのTシャツを着た初老の男がふたりの後ろに並んだ。電車が到着し、ふたりは乗り込んだ。ドアが閉まる瞬間、初老の男はなぜかくるりと踵を返し、ホームに戻ると改札の方へ歩いて行った。ふたりが動き出す電車の中から男を見ると男の方も歩きながらこちらを見ていた。
 「なんだか気味が悪いな」広大が言った。
 ふたりは空いた席に座った。隣の車両から黒い服を着た若い男が歩いてきて、慎吾たちの前に立つと、男はスマホをズボンから取り出しスマホの画面を見ている。慎吾がちらりと前の男に目をやり広大に耳打ちした「前の男のカメラ俺の顔に向けられてないか」「俺も同じこと思った」慎吾が言った。ふたりは席を立ち、ドアの近くに移動して男の様子を伺ったが、男は席に腰を下ろすとスマホをポケットにしまい外の景色を眺めていた。
 ふたりが地元の駅で降り、デパートの脇のやや路面の荒い道をスケボーで走っていると後ろからパトカーが来てふたりの横で止まった。「君たちここでのスケボーは禁止されてるんだよ知ってるかい」警察官がパトカーの窓から顔を出して言った。その顔は薄ら笑いを浮かべていた。
「おいあいつ韓国料理屋から出てきた若い方の警察官じゃないか」広大が言った。
「すぐに済むからふたりともパトカーに乗って、免許証出しといてくれるか」神田が言った。
ふたりはパトカーの後部座席に乗り込むと、神田が顔をこちらにぐっと寄せた。「おい、お前ら何か知ってるか」神田が言った。「いえ、何も知りません」慎吾がうわずった声で言った。「お前もか」神田が言う。広大がうなずいた。「何も見てないんだな」神田が言った。「はい」慎吾が言った。「じゃあ行け」神田が言った。ふたりが降りると、パトカーは走り去って行った。

 その日の夜、慎吾が部屋の灯りを消すと携帯に電話が架かってきた。画面を見ると非通知からだった。慎吾が出ると、電話の向こうからは何も聞こえてこない。慎吾もしばらく黙っていた。ジージーと小さな機械音が聞こえる。しばらくすると電話は切れた。慎吾は携帯電話をガラステーブルに置き頭から布団を被った。すると、再び携帯に着信がありガラステーブルがガタガタ鳴った。慎吾が電話に出て言った「もしもし」電話口の向こうから男の太い声がした「何か知ってるか」「知ってるってなんのことですか」慎吾が言った。「車付けてきたよな」慎吾は黙った。「来週土曜日夜一時にこの前来たところへ来い」男が語気を強めて言った。電話はぶつりと切れた。

 「お前本当に行くつもりかよ。相手が誰だか分かってるのか」広大が電話口で言った。
「他にどうすりゃいいんだよ。住所もばれてるし、逃げ道は残念ながらない」慎吾が言った。
「殺すつもりならこっちが先にやってやる」広大が言った。

 団地の廊下の入り口を蛍光灯が照らしその周りを無数の虫が飛んでいた。
 車内は重苦しい空気で充満していた。「これ一応持ってきた」広大の手には鈍い光を放つサバイバルナイフが握られていた。「使わないことを祈る」慎吾が言った。
 つり橋にはまだクラウンは来ていなかった。月明かりがつり橋に架かる道路や歩道を照らしていた。
 長い時間が経ったように思われたその時、車がハイビームでこちらに向かってくる。急に強い光に包まれたふたりは目が眩んだ。車はプリウスの手前に止まった。「おい、お前らこっちへこい」男の声がした。
 ふたりは車に近づいて行くと、急に背後から羽交い絞めにされ、神田が後部座席のドアを開けるとふたりは車の中に押し込まれた。運転席に座った黒いシャツを着て金のネックレスを首に巻いた男がくるりと後ろを振り向きふたりを見た。色黒でふたりが思っていたより若かった。月明かりが車内に差し込み、助手席には相澤が腕を組んで座り、神田が隣の後部座席でこちらを見ているのが分かった。神田と黒シャツの男がふたりの胸ぐらを掴み後部シートに押し付けた。車のロックが掛けられた。「こいつらか」黒シャツの男が口を開いた。「お前ら、先週のこの時間に何か見たか」黒シャツの男が言った。「見てません」慎吾が言った。ふたりの額から出た汗は首筋を通って、シートベルトに落ちた。「本当のことを言ったら帰してやる。お前らの行方を親御さんは心配してるだろうからな」相澤が言った。「もう一度聞くが、お前ら何か先週なにかを見たか」相澤が言った。「もしかしたらそうかもしれません」慎吾が言った。「もしかしたらというと?」相澤がこちらを振り向き言った。
 黒シャツの男がグローブボックスから黒いリボルバーを取り出した。「酒井さん」相澤が言った。「かまわねえよ」酒井は黒いシャツのポケットから袋に入った白い粉を取り出し、粉を手に出すと鼻から吸い込んだ。
「で、どうなんだよ。知ってんのか知らねえのか、そろそろはっきりしろよ」銃口がこちらに向けられた。ふたりの体の震えは止まらなくなり目を閉じた。「お前ら震えてんぞ」神田が隣で笑いながら言うのが聞こえた。「知ってます」広大が言った。
一瞬車内は静かになった。
「ちょっと押さえておいてください」と神田が言って手錠を取り出した。
ふたりはそれぞれ相澤と酒井に右手首と左手首を押さえつけられた。神田が手錠をはめた。「ちょっと何するんですか」広大が暴れながら言った。神田が広大を押さえつけた。相澤がレクサスのドアを外側から開けた。「お前ら降りろ」酒井が言った。神田と相澤が手錠を引っ張る。ふたりは力ずくで車から降ろされた。「助けてくれ」慎吾が言った。「俺の前を歩け」ふたりは酒井の前を歩いた。プリウスのハイビームに照らされ、ふたりの影は長く伸びていた。「そこで止まれ」酒井が言った。
酒井の方を振り向くとふたりに銃口が向けられた。
 その時、地球と月のあいだの惑星が別の惑星に衝突しいくつかの小惑星に分かれた。
「命乞いしねえのかよ」酒井が言った。
 小惑星は月の引力耐えられず別の星に引き寄せられ、大気圏に突入し一万度の熱に耐えた。
「見逃して下さい」慎吾が震えて言った。
「悪いけど無理だ」酒井が引き金に手をかけると急に辺り一面昼間のように明るくなった。
「なんだこりゃあ」酒井が言った。
空を見ると巨大な火球が光の尾を後方へ伸ばしながら上空を通過していた。
全員空を見上げた。火球がこちらに向かって飛んで来る。 
「おい、広大やばいぞ逃げろ!」次の瞬間辺り一面強い光で何も見えなくなったかと思うと、閃光が走りドーンという音がし、地面が大きく揺れ、ふたりは爆風で吹き飛ばされた。ふたりがレクサスの方を見ると車は激しい火柱が立ち黒い煙が立ち上っていた。辺りは焦げ臭い異臭が充満し、火の粉が降り注いでいた。レクサスの近くに黒い人のような物体が火を上げて燃えていた。

「なんてことだ!」広大が叫んだ。「広大早くしろ!」慎吾が言った。慎吾たちは走って車内に駆け込みエンジンをかけた。「慎吾運転出来るか」広大が言った。「ああ、なんとか」慎吾が言ってターンしアクセルを踏み込み道路を駆け抜けた。


 このあたりでやめておこう。あまり深入りするべきではないし、伏せなければならない事情も色々あるのだ。つまりこれが十年前に起こった出来事である。私はここで若き好奇心の行方を暗示した。その結末を理解していただけたら幸いだ。
 近頃、あの時もし死んでいたらと考える事が多くなった。今では私も広大も地元を離れ、広大にいたっては子供がいる三児のパパになっている。私の方といえば細々とスケボーを続け、月に二度ほど子供たちに教えている。その生活があるのも、あの隕石のおかけだと考えられるだろうか。今でも夢の中の出来事のように思える。
 最後になるが、あなたが車で急いでいる時、悪態をついたり、あるいは仲睦まじい会話をするときには後ろの車に十分に注意するように願う。

 

 


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