無駄とは何か

無駄を廃した効率的な社会が幸せとは限らない。むしろ、無駄を上手く活用することで豊かな生活がおくれるはずである。生活の中、あるいは人間社会の無駄、それらが生まれてしまった本質を理解することで現代社会の閉塞感を打ち破ろうではないか。
例えば車で通勤して、仕事帰りにジムに通うのはある程度の収入がある人にとってのステータスである。他方、自転車かあるいは走って通勤し、会社で服を着替え、それから仕事をする人もいるそうだ。その方が無駄がないようにも思える。しかしジムとは単なる運動の場ではなく社交の場でもある。自分と同じようなレベルの相手と知り合い、人脈を広げる機会が得られる。だから一概に無駄とも言えない。
しかしながら私のような就職に有利な学歴もキャリアも無く、派遣やらバイトやらで生活している者にとってはそのような「無駄」をする余裕はない。だから散歩や自転車による通勤で健康を維持しようとする。工夫次第ではお金を遣わずに欲しいものを得ることだってできる。私のような者にとって、一番悪いお金の使い方は金で時間を買うことである。自炊をしないで外食する、歩かないでタクシーを使うなどの使い方は悪手だ。外食や買い食いで使うお金の中にはその料理や食品を作った人の人件費や輸送費、お店のテナント代、光熱費などが含まれる。1から食材を買い、自分で料理するのは安上がりで、めんどうだが楽しい。頭を使うし手を動かすので脳が活性化される。
その一方、料理のわずらわしさを無駄として捉えて外食や買い食いをした場合、頭はそんなに使わない。すると人間というのは不思議なもので、他で頭を使わなかった分、別に頭を使う場面を求めて行動してしまう。何かゲームをやったり、ネットのニュース記事に小難しいコメントでも書いてやろうという気になってしまう。つまり、これも1つの「無駄」だ。
時間がかかる煩わしいこと、面倒で手のかかることというのを遠ざけていると必ず歪みが生まれてくる。一番良い例はパチンコやソーシャルゲームのガチャかも知れない。あまりにも簡単に、ボタン1つで脳の報酬系が満足させられてしまうのではまりすぎると無気力な人間になってしまう。無駄なく「楽しいこと」が出来てしまう環境というのは人間にとってバランスを欠いた危険な状態だ。
まとめると、私達が考えている無駄の意味は大きく分けて2つある。

1、タクシーなら10分、歩けば2時間だから、タクシーで行った方が余った時間に好きなことができるというような、「目的地に着く」「時間を節約する」という効率を求める項目を絞りこんで無駄だと断じるパターン。

2、ある種のバランスの欠如、歪みそのものを指してこれは不要なものだと断じているパターン。タクシーで通勤していながら、やっぱり運動不足になってジムに通いお金を払うというような一連の流れを、つまり俯瞰して「無駄」を見つけている。

結局のところ、無駄とは主観であり客観的で絶対的な無駄など有りはしないということだ。効率を求める項目を限定した上での「無駄」も、全体を俯瞰してバランスの偏りを指摘する「無駄」もどれも正解で、個人の価値観や好みに完全に依存する。
世の中の風潮として厳しい不況の時代、競争社会を生き残るには無駄の無い生き方をしなければならないかのような一種の強迫観念のようなものに囚われがちだが、「無駄」を無くすなんて無理な相談だ。「無駄なく生きろ」は価値観や一方的なルールの押しつけに過ぎない。むしろ、「無駄」にこそその人が大切にしている価値観や個性、人生の醍醐味やチャンスが潜んでいることを忘れてはならない。
無くそう、無くそうと思っていればいる程、自分が何かを無駄にしていることを発見するのが怖くなってくる。世の中の風潮に「反省しろ、反省しろ」と言われ続けているような気がするから鬱や自殺も減らないのであろう。「無くさなきゃ」ではなく、「うまく付き合おう」ぐらいの方が精神的にも良いと思う。

いっそのこと、その言葉自体つかわないとか。代わりに古語の「つれづれなり」とか「いたずらなり」とかを使う方が奥行きがあって良いのではないだろうか。そんな調子で自分の「つれづれなる」あるいは「いたずらなる」生活習慣を再評価してみると良いかも知れない。

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