やりすぎだったかもしれない(#4 本)
法律家でも芸術家でもないけれど、読書家ではあると思う。良くも悪くも、本というものがなければいまの自分はない。
どこへ行くにも本が一緒だった。ランドセルには教科書以外の本が必ず一冊入っていたし、年を重ねるにつれて、その数は二冊、三冊と増えていった。大学生になり、ひとりで旅に出る機会が何度かあったが、そういうときはなおひどかった。目下読んでいる本が一冊、それが読み終わるか飽きるかしたら読む本が二冊、不慮の事態が起きてしばらく帰れないなんてことになっても困らないようにもう二冊の本の計五冊。しかも旅先の古本屋で本を買った挙句、帰路には倍に増えているなんてことも珍しいことではなかった。
図書室あるいは図書館にはよく通った。本屋にもよく通った。背丈より高い書架の狭間で静けさと紙の匂いに包まれると呼吸が一段深くなった。読めもしない本を手にとってページを繰ってはちょっと大人になったような気分を味わった。立ち読みもよくしたが、お金があれば使い道にはいっさい不自由しなかった。
一度読み始めると、切りがつくまでは止まらなかった。本来降りる駅を過ぎても電車に乗り続け、終点についてからの折り返しの路線であらためて下車するなんてことは日常茶飯事だった。そんなことをしていて授業に遅刻したことが幾度もある。やりすぎだったかもしれない。でもいまだって似たようなものだ。たしかにほんのちょっとやりくりは上手くなったかもしれない。でも結局のところは何も変わらないままだ。私の読書世界は現実の生活から自律し、それよりも優先される傾向にある。良くも悪くも。あるいは、良くもなく、悪くもなく。
生活のなんらかのシーンが本を読むことを動機づけることはもちろんある。しかしもうそればかりではない。読んだ本が次なる本を呼び、その本がさらに思いもがけない本を招きよせる。頭の内部にあるいは精神の奥地に、一冊一冊、本が積み上げられていき、ひとつの建造物が築かれていく。それはそれ自身の意志を持って、上へ横へと延びていく。約束されない完成を夢見て。読書世界が自律しているといったのにはそういう意味もある。
ときどきふと不安になることがある。いま読んでいる本は、そもそもどういう経緯で読むことになったんだっけと。そして、いつのまにか森の奥深くに一人でさまよいこんでいたことに気づいた人のように、はっと顔を上げ、この本を読むに至るまでの道のりを探るのだ。入り口はどこにあったのか。それをうまく思いだすことができれば、ひとまず安心してさらに奥へと踏み出すことができる。
道はひとつではない。外の現実から読書の森へとつながる入口はいくつもあり、そこからいくつもの道が延びている。いくつかの方針をもって複数の読書が並走する。ときどき交わることもある。森の奥深くで道は錯綜している。どこにたどり着くかは未知のままだ。
厳しい見方に立てば、これは逃避であり浪費であるということになる。現実とのつながりを失った(一見そのように見える)読書に、大衆を納得させるような正当性はないかもしれない。一方で好意的に見れば、これは長い時間―ときに不必要なほどに長い時間―湯船に浸かる行為に似ている。それ自体として好ましい行為。効果は無理に求めずとも、全身を長いあいだ浸しているうちに自然と現れる。それは必ず現実にも作用する。からだの深いところで起きる変化であるがゆえに、容易には抗えない仕方で。
ことさらに自らを弁護したいわけではない。信条をもってこの迷路に足を踏み入れたわけではない。気がつけば足を踏み入れたのが迷路だったというだけの話だ。空想的な性質と知的な好奇心が仇となったのだ。悲観的になっているわけではない。なぜならそれらは生涯の友でもあるわけだから。
かわねの生きモノ6000分の1 サエキ