温泉
そこは地元の田舎町の温泉で、入浴料が150円と言う破格だった。
しかも、循環湯ではなく源泉かけ流しである。
昭和の時代からそのまま現代にコピペしたかのような出立ちの建物。
外壁にはカビだかシミだか水垢だか、よくわからない汚れがあちこちに見られるが、それさえ「味」にしてしまう風情である。
横開きのすりガラス戸をガラガラガラと開くと、すぐ目の前に現れる番台で、おばあちゃんに150円を渡す。
「ごゆっくりね」
と、脱衣所へ向かう僕たちの背中に、きっといつもそうしているのだろう、挨拶がわりのように柔らかな声をかけてくれた。
湯船の向こうとこちらに頭を浮かべて、Yと2人貸切状態の男湯にて
「うほー、極楽やなぁ」
「オレたちだけやないかーい」
などと、言ってみる。人はなぜ温泉に入った時だけ「極楽」などと言ってしまうのだろう。普段まったく言わないのに。
これぞ公衆浴場の雰囲気をたたえた浴室は、窓が開け放たれており、隣家の窓は、こちらが丸見えの位置にある。
つまり、のぞこうと思えば余裕でのぞける位置にあるのだ。
もちろん、男湯をのぞこうなんて趣味のある人などほぼいないだろうけど、ふとそんなことが頭によぎる。
すると、
「まぁ、いいじゃないですか。ここじゃ、そんな細かいことは」
と、どこからか声が聞こえた気がして、確かにそんな細かいことはどうでもいいな、と湯船で足を伸ばしてみる。
20代中頃に、両親を温泉旅館へと一泊旅行に連れて行ったことがある。
その時泊まった旅館の温泉は、もちろん公衆浴場と異なり、贅を尽くした作りになっていた。
今入っている150円の風呂が牛丼の吉野家なら、その旅館の風呂は高級料亭みたいなものだろう。
それぞれに良い。
その時、父と入った温泉で少し照れ臭いながらもたまの親孝行だと思い
「背中、流そうか?」
と、父に言ってみると
「おう!よかけ?」
と、断られるかと思ったら意外にも乗り気の父。
タオルに石鹸の泡を立てて、父の背中をゴシゴシしながら、妙に僕の中にこみ上げるものがあった。
それは、感謝や喜びや寂しさ、そういうものたちが絶妙なバランスでブレンドされた名前のない感情だった。
こんな書き方をしていると、「今は亡き父」について語っているようだが、存命である。
ちなみに、今現在は育毛に力を入れており会えば、「ほら?髪が増えたやろ?」と自分の頭を見せてくるが、よくわからない。
Yも僕も2人揃って「からすの行水」である。
「極楽だ」とは言いながらも、ささっと体を洗って湯に浸かって、ものの15分もしないうちに出てしまう。
「わざわざ入浴料払ってるのに、もったいないよ」
と、嫁さんに言われるが、僕にはちょうどいいバランスがあるのだ。バランスが。
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