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精神的セミとしての正直な告白:2020

(本記事はちょうど2年前のこの時期に書いたものを「キナリ杯」へのエントリー用に加筆改題したものです)

 夏が好きだ。

 もちろん四季折々にそれぞれの楽しみや美しさがあることは承知しているが、どれか一つを選べ…と言われるまでもなく「夏が好きだ」と躊躇なく宣言できる。炎天下で意識が朦朧とすることも、満員電車で汗の饐えた臭いに辟易することも、夜中に寝苦しくて目が覚めることもあるけれど、それでもなお「夏が好きだ」と表明せずにはいられない。

 僕が7月生まれだからかもしれないし、温暖な宮崎で生まれ育ったからかもしれない。さらに言えば父方の祖父母が沖縄の人だったからかもしれない。ともかく、地球の公転に合わせて日本に夏が近づくと気持ちがグングン高揚し、それが遠ざかっていく気配を感じるとどうしようもない寂寥感に襲われる。そして冬の間は心を閉ざして「夏はまだか…!!」と念仏を唱える地蔵と化すのが毎年のパターンだ。気温が10℃を下回るようになると、SNSで「バカじゃないの!?」などと寒さに対して毒づき始める始末である。

 つらつらと惟るに、僕にとって「夏が好きだ」という言葉の中には1)基本的に晴れていて強い陽射しを感じられること、2)薄着でいられる程度に気温が高いこと、3)昼の時間が長いこと、の3つの条件が含まれているような気がする。だから梅雨がなかなか明けない7月の東京には毎年イライラするし、8月も下旬になってちょっと夕暮れが早まってきたことを実感したりすると「あぁ…」と溜息が漏れたりもする。
 その後は9月になっても「いや、まだ8月32日だから!!」と往生際の悪い読み替えに励み、秋分の日を過ぎて冬至までの間は日没が加速度的に早まる日々を暗澹たる気持ちで暮らし、年が明ける頃からは寒さに凍え苛立ちながらひたすら夏の訪れを祈る日々を過ごす。来たるべき季節への期待で元気が出てくるのは春分の日を過ぎた辺りからだろうか。

 そう考えると、東京に住んでいて留保なく夏を満喫し、その容赦ない夏らしさに快哉を叫んでいられる期間はせいぜい8月前半の10日から2週間ぐらい。おそらく多くの夏好きの皆さんも程度の差こそあれ似たような1年を過ごしているのではないかと思う。つまり、我々夏好き族は精神的にはほとんどセミと同じようなものなのだ。

 8月頃になるとテレビの天気予報の枕で「毎日暑くてウンザリしますね〜」とアナウンサーが気象予報士に振ったりしているが、夏好きの「精神的セミ」の立場から言うと「あん? 毎日暑くて何が悪い!!」と、暑さを忌むべきもののように語られることに激しい違和感を覚えたりもする。だってあなたたち、冬場に「毎日寒くてウンザリしますね」とは言ってないでしょ? そんなの不公平だ。
 僕の友人にも夏が苦手な人は何人かいて、SNSで「早く冬にならないかな」などと暴言(と敢えて言わせてもらう)を吐いたりしているのだが、彼らは気候的には暑くなければ許容していそうな感じなので、1年の3/4は「まあまあ暮らせる」シーズンのはず。一方で我々精神的セミは「晴れてて暑くてカーッとしてるのが好き」なわけだから、上述したとおり望みが叶う期間はかなり限られており、それ以外の期間は常に満たされない想いを抱いているのである。可哀想な存在だとは思いませんか?

 今は何を書いてもクソリプが飛んでくる時代で、「夏が好きだ」と表明するだけでも「夏が苦手な人だっているんですよ!!」とか「熱中症で亡くなった方のご遺族の気持ちを考えたことがあるんですか!?」とか「そんなに夏が好きなら外で交通整理の仕事でもしてれば?」とか、色んな反発が可視化される可能性を想定しておかなくてはならない。うっかり筆が滑って「街行く女の子も薄着になって…」などと書こうものなら炎上必至である。村上春樹風に言えば『好むと好まざるとにかかわらず、我々はそういう時代に生きている』のだ。でもセミなので敢えてもう一度言います。

 夏が好きだ。(オリンピックも延期になって割と静かな夏を迎えることになりそうな東京にて)

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