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源氏物語を読みたい80代母のために 5

さてGWも明けまして、「ひかるのきみ 参」は母の日フラワーアレンジメントとともに無事、母の元に届いたようでございます。よかったよかった。お礼にと、たけのこご飯の素、フキの煮物、丸いもの煮っころがし、よもぎ団子等母渾身の手作り品詰合せがやってきましたヒャッホウ!家族五人おこもり中の昨今、これはとても嬉しい。夕飯として美味しくいただきました。

母の中で源氏物語はもはや身近なお話であり、世の中に如何に源氏由来のものが溢れているか気づくことができるようになって、毎日充実して楽しいらしい。これ、全部何処かで聞いたことのあるような話やね、みんなこれを元にしてるんや……何でもっと早く読まなかったんやろか阿呆んてな、と何度となくぶつぶつ。まあこういうのもご縁というかタイミングがあるんだし、十分間に合ってる!いけいけ!ということで「参」は後書きから読むんですと。通だね(なんでだ)。

「参」の感想は後日として、ちょっと前に見つけた故・秋山虔(けん)氏(源氏物語研究の大家!)の文章を紹介したいと思う。

「……現実にはあり得ない歴史を、物語の世界の中で創りあげていったということ。その凄まじい魅力と言いましょうか、そういうものが光源氏の魅力だと、私は思っているんです。そういうふうな行為の選択をした気持というものも一緒に表現しているというのが、紫式部の『源氏』なんですよ。源氏の具体的ないろんな行為があります。それが語られている時に、読者はそこに自分を見ると。というのは、ある場面場面のそういういろんなケースですね、そういうものにおいては、読者は文句なしに同化する、共感させられてしまう。全体的にみると、こんな人間は現実にはあり得ない。だけど光源氏の行為を見ると、そこに自分を見出すと、人生というものは変わっていくんですね。我々の人生もそうなんですよ。…中略… 源氏は、単なる色好みとして女性関係ばっかり追い掛けていたんじゃなくて、いろんな世俗的な関係でもって知恵を絞って、いろんな人間関係を作り上げていって、自分の体勢を建設していくんだと。そういう主人公というものは、これまではなかったと思うんです。それを紫式部は創り上げていったということは、これは大変なことだと思いますね。」(NHKこころの時代「源氏物語と歩む」より抜粋)※強調は筆者

あああ、わかる!気がする。「源氏」はどういうわけか、ひとつ読み通すとまた次、とどんどん読みたくなる、それも何度も。登場人物も話の進行も起こることも同じなのになぜか飽きないのは、それぞれに違う「自分」を見出すからか。若かりし頃、色んな訳者の源氏を読み漁ったのは、書き手によって解釈がかなり異なるのが面白かったのだが、実のところ自分自身をも「発見」していたのかもしれない。確かに、源氏好きな人というのはそれぞれ自分なりの「源氏」観があるように思う。

そもそも平安貴族は、三十一文字の中に時事ネタや故事成語など盛り込む・韻踏む・ダブル/トリプルミーニング当たり前といった歌のやりとりを公私問わず日常的にしていたわけで、「重層的」で「多面体」なものには書く方も読む方も慣れていた。というか、そうでないと面白味を感じなかったのではないか。光源氏は「理想形」でありながら、必ずしも格好いいばかりではない。すぐ泣くし凹むし拗ねるし、調子こいて失敗もするし、すげなく拒否られたりもするし、かと思えばこれはもう無理でしょ、という状態から奇跡の大逆転を遂げたりもする。紫式部が初めから意識的にそういう造形を行ったのか、徐々にこうなっていったのかはわからないが、多くの人に「受ける」物語の基本をガッツリ押さえている。

源氏物語を書く事で、あまり表に出せないでいたその高い知性を如何なく発揮できる、到底手の届かない高貴な人々の心の奥底を理解できる、ひいては自分の今いる世界全体をも俯瞰して捉えることができる。まさに書く事が生きること、真の自分を生きるということだったんだろう。

彼女の真の名前はわからないし、彼女の筆になる原稿も見つかっていない。なのに創り上げた世界は、千年をゆうに超えて存在し続けている。本当に凄いことだ。

というわけで、源氏物語ってとりあえずどんな感じ?と興味が出たお方は「ひかるのきみ」をご一読いただければ幸いです。今「須磨」の途中です。


「文字として何かを残していくこと」の意味を考えつつ日々書いています。