【時を超えて訪れるメッセージ】はじまり編
こんにちは。
開設したまま放置していたnoteを
久しぶりに開いて文字を入力しています。
書きたいと思った、そのときがはじまり。
それが今日でした。
題名を見てなにか怪しいと思ったひと、手を挙げて。
心のなかでもいいから。
でもこれ、誰にでもあること。
誰にでもあること、と思えば怪しい感じはなくなるでしょ。
それ、いつ自分に刷り込まれたんだろうね。
頭のなかの番人、と私は読んでいる。
頭のなかの番人は時に、外側の世界をフォーカスする。
やってみたこともないことに対して下された発言を
さも実現したときかのように再現しては
私たちの行動を停止させるときがある。
そんなとき。
むかしあなたが思っていたことを探してみてください。
書いていたもの、メモしたもの
日々のスケジュールの手帳、
近くの人々、友人、家族に刻まれた
あなたの存在の記憶など
あなたの昔を観察してみましょう。
例えば日記は日付を書きますね。
その日付があれば
その時代のあなたを思い出す。
日々SNSやブログに書いているものは
日付やカテゴリーから検索することができるし
キーワードを入力すると
思いがけない記事が出てくるときもあります。
これを読んでいるあなたは日記を書きますか?
もしくは手帳でスケジュールの管理をしていますか?
私の場合、日記帳というものはもう手元にないけれど
インターネットが普及しはじめた1999年ごろから
ひとつのライフワークを元にして、コラムを書き始め
その後、自由に書ける場所を探した先にあった
掲示板やブログという場所に書くことを続けています。
残念なことに一部それは消失してしまったけれど
2002年ごろに移管したブログには10年分ほどの記録があり
その後、別のブログに何かしらを入力しています。
電気を通して書くことをはじめてから徐々に
紙にペンで書くということから少し離れてしまいました。
しかし様々な紆余曲折を経て
紙に書くということに「小さな崇高さ」を感じ
さまざまなノートやメモ帳を手に入れては
なにかしらメモしたりするようになりました。
そして、そのノートやメモは、
記憶の彼方、いや、
押入れの彼方に行くのですが
時々わすれたように
その彼方におかれたノートやメモのなかに
いまのいま、自分へのメッセージともとれる言葉を
受け取ることがあります。
電子化されたものは検索機能が使えますが
いつ、なにをどこに書いたか、というものすら
忘れているときには検索さえ時間のかかること
おっくうだ、となります。
また、過去の経験は全て自分に備わっているから不要!と
「頭の番人」が勝手に思い違いをしている場合もあります。
データ検索とかの前提がなく、
ふいに訪れる自分の過去は
驚くほどに自分に力を宿すことがあります。
それは「過去の栄光」とかではなく
もがいてあがいて苦しんでいたこととか
なにかのきっかけにしたメモとか
栄光という結果論の話ではなく
プロセスという点が、特にメッセージが強いのです。
もしかすれば、
あのとき救いを求めていた先は
未来の自分自身へ、だったのかもしれない。
未来のあなたはどんな選択をしているのだろう。
未来のあなたはこれをどう切り抜けたのだろう、と。
なぜこのテーマをnoteに書こうと思ったのは
とあるテーマを通じて
過去の自分に出会ったから。
そのテーマは2006年から2007年のある期間。
どんな期間でしたか?というものでした。
この期間の日常は
その長く書いていたブログに残っていました。
そしてその中に
もがいている自分を見つけました。
文章からは楽しんでいるようにみえたり
軽くグチをいっているような面もあるけれど
それよりもっともっと
その当時、何か微かに見つけた光に向かって
その時生きている私の熱量が
少しずつ動く気配のようなものを感じました。
「このことをどこかに「記録」しておきたい。」
始めFBのタイムラインにも記しましたし
今現在更新しているブログにも書こうと思いました。
でも、いま書いているSNSやブログなどの媒体とは
様相が異なる気がしたのです。
それは、その過去のブログのなかの
2009年に生きていた私の
とあるつぶやき。
「書くことは辞めませんから。」
未来の私に、今の私に
それはとても深く響いた。
もっと昔、純粋に
そう。もがいてる自分を書いていた時代のようなこと。
と思ったとき、noteの存在を思い出しました。
・・・ああきっとあのとき
なんかあったんだろう。
この一言で、当時の私の鼻息の力を
垣間見たのです。
未来の私・今の私が
あのときの私が書いたものから
その熱量を受け取り
この「過去からのメッセージ」のことを
書いていこうと思った次第なのです。
こんなこと、1時間前までは考えていませんでした。
まさに過去の自分からのギフトかもしれません。
書くことで、創作は始まる。そんな気がします。
ここまでのプロセスといえば
9月の下旬くらいから私の身に訪れることが
いつかの自分の満ち溢れた気持ちの中の感覚だったり
昔よくわからなかったことを今になって
身をもって理解したり
時を超えて訪れる、メッセージのようなものを
自分のインスピレーションの動きに共鳴させながら
小さく過去と未来を行ったり来たりしている、
そんな流れだったからです。
以前の自分であれば見てなかったものや
見えていなかったもの。
さまざまな要因があって
理解しようとしていなかったもの。
幼すぎて解釈しきれなかったこと。
こころ閉じて、受け入れられなかったこと。
それはどうやって訪れたといえば
きっと少し昔の自分の行動の先にあったこと。
当時は、見えていなかったところ。
想像できなかったこと。
楽しいことばかりじゃない
吐きそうなつらいことのなかにも。
時が停止してどうしようもなかった頃のなかにも。
私はいた。それがいまもいる。
そうやって、昔書いていたことが
いま想像もつかないほど
私の力を育て始めた。
いまの今、進化変化した自分が改めて
確認して理解を深めることになったメモや
本来のわたしの動きを取り戻す力を
吹き込んでくれた言葉が残っているノート。
当時の私は、日常を書きながらも
そんな未来が待っていると思っていなかっただろう。
そんな純な当時の私が
いまのわたしに勇気をくれるときがある。
それは写真ひとつでも感じるときがある。
先日ある企画のために早急に
自分の活動の動画を創る必要があり
手持ちの音と画像と合わせたデータを
WEBにアップしたのですが。
なんだかいろいろ思い出して泣けてきました。
細部の行動や心境のところまで思い出して。
そうだね、そうだったねって。
このとき楽しかったし
あのとき大変だったし、いろいろあったねって。
ピックアップしたお写真も動画もぜんぶ
着ているお衣装もそれぞれ
皆さんがいたからこそ存在している。
皆さんがいないとこの世界に
生み出せないことがたくさんあるのだと
何度も何度も感じていました。
そして過去のブログにも
このことと同じようなことが書いてありました。
自分ひとりでは生きていけないのだ、と。
昔のあなたも、12年前にそう感じていたのか。
そう書きたいと思った何かが
あなたに訪れていたのか、と。
過去の自分を、未来の自分が観ている。
過去の自分から、未来の自分につながる伝言がある。
もしこの秋に
なにか見えなくてくすぶっているのなら
書いていたもの、メモしたもの
日々のスケジュールの手帳、
近くの人々、友人、家族に刻まれた
あなたの存在の記憶など
昔のあなたを「おおきな心」で
観察すること、お勧めします。
それはもっと昔、子供のころのものでもいい。
そしてそれをすこし時間をかけて眺めて。
このとき、何が楽しかっただろう
何が起こっていただろう
どういう年だったろう、と。
1分1秒、時は過ぎて過去になる。
昨日書いたことでさえ
未来の自分にとっては
思いがけない伝言を受け取るときもある。
だから、書くことに目が離せない
いや、手を離せない。
書けない理由、書かない理由。
それは個人の選択だ。
しかし。
頭の中の番人が止めているのなら
いちどその番人を観察するのはどうだろう。
その番人はいつから
自分に住み始めたのか。
自分の日々のメモや言葉を書く前に
番人観察日記でも
書いてみるといいんじゃないかな。
【タイトル:今日の番人】
「書きたくない。恥ずかしい、なんでひとさまに
書いたものを見せなければならないんだ。
。。。と頭のなかの番人が言っている。
どうやら番人は、ねたまれるのが嫌なような。
そもそもねたまれるって、どこで覚えたんだ?番人よ。」
・・・とかね。
今後noteでは、
過去にあちこち記していことを
ピックアップしながら書いていきたいと思う。
昔の私に会いに行く
昔の誰かに
会いに行く。
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