川上通信

福井県おおい町川上にて、地域の伝承や言い伝えなどをまとめたブログの保守をしています。

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福井県おおい町川上にて、地域の伝承や言い伝えなどをまとめたブログの保守をしています。

最近の記事

藤布と二体の仏像 〜宝尾〜

金剛院の本尊“波切不動明王像”が宝尾から勧請されたという伝承を、以前ここでご紹介しました。 実はこの不動さん以外にも宝尾から金剛院へ移された仏像があると云われていて、昨年までこのことについては全く知りませんでした。 今日はこの『もうひとつの山を越えた仏像』について触れられている、舞鶴文化懇話会会報の記事を抜粋してご紹介します。 金剛院にまつわる話。 金剛院関係者、舞鶴の人には心地の良い響として耳に入り難いと想い、永らく胸底に潜めて秘めておりましたが、私もようやく馬齢を重ね

    • 古小屋のあじわい

      古びた小屋は何となく良い。 つぎはぎのトタン屋根が錆びまくっていたり、壁がボロンボロンはがれていたり、棒や板が雑多に立て掛けられていたり。 どうでも良さというか、仕方なさというか、こだわりのなさ感が漂っていて、そこから醸し出される清々しさが魅力のひとつ。 洗濯物が干されていたり、カーテンの隙間から小物がちらりとのぞいたりといった生々しい生活臭は皆無で、枯れた味わいが楽しめます。 こういう趣向はそれほど特異なものではないようで、『小屋の力』なんていう写真本もあるようです。

      • 栃の実物語

        以前おおい町文化協会発行の広報誌に掲載された、渡辺 均氏『栃の実物語』の内容に写真を追加して掲載します。 佐分利川に沿ってこの谷を奥へ入ると、久保と川上の山にだけ大きな栃の木がある。 どういうわけか佐分利川の右岸側の山で、北側を向いた斜面にのみ生えている木である。 川上の山には何本もあるが、村の古老の話では幹周りが5~6メートルにもなり、樹齢が何百年になるか分からない木があると云う。 しかしどの木も谷の非常に険しい所に生えていて、木の元まで行くのが難儀である。 永い間、

        • 田植え前の宵の口

        藤布と二体の仏像 〜宝尾〜

          ふるさとへの絵手紙 トチ

          トチ(1) 杤、橡、栃、柮 四字もある。出世木かなと思ったが、でもないらしい。 七つの葉にて一葉とする。なる程七枚である。 高木で深山にあり、姿雄大にして群を抜く。 計らんや昔の事、坂下より車で五分、歩いて三十分、いやはや驚きである。 全国で十本の指で数へる程の貧乏県であったように思ったが(失礼)、 何と様変わりな。 喜んでいいのか悲しんでいいのか。 茹だるような八月も終り、焦がすような九月に入った。 台風の声がしてきた。 昔しは「荒れ」と云った。 二百十日、二十日の前

          ふるさとへの絵手紙 トチ

          田井谷の桂の大木

          9月の初旬、田井谷の山中にあるという大きな桂の木を見に行きました。 その大木、小脇谷(こわぎだん)を遡り、少し山腹を登ったところにあるということは聞いていたのですが、まだまだ草木が生い茂る時期のこと。 見つけるのに手間取るのも面白くないので、父に案内を頼みました。     桂の大木へは、田井谷の林道の突き当たりで車を降り、そこから徒歩になります。 右の谷は滝ヶ谷、左が小脇谷。 滝ヶ谷とは違いこちらには道がないので、沢沿いの歩けそうなところを進みます。 すぐに山の神谷との分

          田井谷の桂の大木

          山腹を這う水路(大井根)

          言わずもがなのことですが、米づくりには大量の水が必要です。 その水を得るために先人は様々な工夫を凝らし、惜しみなく労力を注ぎ込んできました。ここ川上区においては、「大井根」と呼ばれる全長1Km余りもある山中の用水路がその最たるものだと言えます。 大井根は新鞍谷の西谷口から取水し、神水・博城(はかましろ)の山腹を高巻きにして大柳まで長い間谷水を運んできました。 この水路は、400年程前にこの地に移り住まれた治右門家の先祖、大柳権之守が考案し、工事の指揮を執ったと云われています

          山腹を這う水路(大井根)

          野逕渓の烏帽子岩

          「烏帽子岩」字野逕谷の山中に烏帽子岩とよぶ烏帽子によく似た岩があった。区内の男子が十五才になると元服祝としてこの岩に参る習慣があったというが、この岩も水害のために流されて今はない。 (郷土史大飯 昭和46年発行より) 郷土史にこのように記されている烏帽子岩。元服祝というからには岩に参っていたのは明治以前の話だと思われます。記述を信じて既に無いものと思い込んでいましたが、意外なことに流されてなどおらず谷に今も残っているという。 それを聞いて早速見に行ってきました。なんでも

          野逕渓の烏帽子岩

          密通と逢瀬の谷(岸谷)

          「盆の14〜16日の間は岸谷に立ち入るな」という言い伝えが、上方にあると聞きました。 立ち入りを禁ずるその理由は分かりません。 関係があるかは不明ですが、岸谷の奥には『孫左の念仏堂』があったと言われています。 このことを古老に訊ねたところ、岸谷の土師と呼ばれる辺りに「土師庵(どしあん)」という古色蒼然とした小さな平地があって、そこに尼寺があったと言い伝えられているそうです。 なんでも昔むかしその寺の尼僧が男の僧と恋に落ち、思い詰めた二人は添い遂げたい一心で寺に火をつけ出奔し

          密通と逢瀬の谷(岸谷)

          ふるさとへの絵手紙 盂蘭盆会

          盂蘭盆会(一)迎え 精霊祭(ショウリョウマツリ)あるいは 魂迎(タマムカエ)と云うらしい。 お盆の十三日の夕方だったと思うが、庭の角にて 松のじんにて焚火をし、線香をあげた。 仏さんが此の火をたよりに来るんだよ、 とおい所からねえ、とお母さんが言った。 先祖と言うものの有難たさと、其の供養を 此の時分からおそわった。 仏壇の掃除をして、仏を迎えるにあたってのかざりつけをする。 華束の上に何が並ぶか、其れがたのしみだった。 お菓子かな、果物だったら何だろう 横目で鼻を

          ふるさとへの絵手紙 盂蘭盆会

          ふるさとへの絵手紙 水辺のいきもの

          ナチイサン西国札所の第一番に“那智山 青岸渡寺”があり、 其のお参りの時にやはり里国の若狭を思い出した。 自分の家のみならず彼方此方の法要にゆき、御詠歌を聞き詠じた。 先導さん(と云うのだろう)の人が「一番に紀伊国那智山」と皮切りの声を発する。 はっすると言っても勇ましい声ではなく 仏の国と現世を結びつけて呉れるように。 「ふだらくや・・・」 此れが其の詠歌のなちいさんか・・・と繰り返しているうちに、 “ナチイサン”と云う魚がいた事を思い出した。 図体は全く小さかっ

          ふるさとへの絵手紙 水辺のいきもの

          盆踊り、準備完了

          本日14日の川上区盆踊り、準備完了です。

          盆踊り、準備完了

          大ぶな坂(その2)

          大ぶな坂 吹切峠探索(2009.7月5日)先日ここで紹介した大ぶな坂ですが、林道と交差した先の区間は未踏査のままでした。 過去記事:大ぶな坂 もうかなり暑いし、次に行くのは11月か来年の3月くらいにしよう、とのんびり構えていたら淳さんから突然の電話。 「今日、ここの峠を案内して欲しいという名田庄の人が来る」とのこと。 「案内いうても、わしも途中までしか行ってないでのう。まあ探検や思て行かんか、探検はおもしろいでのう」という山歩きのお誘いでした。 探検が面白いのは全く同

          大ぶな坂(その2)

          大ぶな坂

          (ふるさと探訪 第二回 三谷義太郎氏:新鞍谷より抜粋) 新鞍の西谷の私の山と野逕渓(やけだん)の治良左さんの山頂に「馬がせ」と云う処がある。馬の背のようになっているのでそう呼んでいる。 昔は野逕渓から入りこの馬がせを通り西谷の端をどんどんと登り、裏は田井谷の足谷、次ぎは横谷と登って大滝の頂上の登尾坂に合流する坂道を「大ぶな坂」と言った。 大ぶな坂は、相当古い話であるが春先に共有山の奥地に火をつけて山焼きをして、五月末から六月にかけて木の新芽をさぶい(山芝草・田圃の肥料)

          ふるさとへの絵手紙 寺

          歓喜寺炎上川上村には二つの寺があった。 上に歓喜寺、下に清源寺。 両寺共石段をのぼれば、其れぞれ全戸が見渡せるいい場所にあった。 昭和三十五年頃だと思う、夏の盛りだっただろう。 「どおん」、とつ然の大きな音。パチパチと音と煙りと一緒に舞い上った。 ハタガメ※が落ちた、皆がどこだどこだと、さわぎかけた。 大変だ、大変だ、其れ消しに行け。 宮垣の橋のあたりまで走っていったら、もう火の柱だった。 やっさえもんの家にはもう近よれない、野瀬も危い。 そら水だ水だ、やんじょもんの

          ふるさとへの絵手紙 寺

          つちのことの出会い(後日譚)

          滝ヶ谷探訪 前回のつちのこ記事をブログに載せるにあたり、大体の位置を把握するため文章を書かれた一止氏ご本人にお話しをうかがいました。すると「話だけではよく解らんだろうから案内してあげる」とのありがたい申し出。 次の日は天気が崩れるという予報だったので、早速お言葉に甘えてその日の午後、軽トラに乗って滝ヶ谷へ向かいました。 田井谷川を作業道に沿って遡上し、古和清水(こわしょうず)を過ぎると、道の終点で小脇谷と滝ヶ谷の合流点に出ます。ここには土手のような盛土に囲まれた平場があり

          つちのことの出会い(後日譚)