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藤布と二体の仏像 〜宝尾〜

金剛院の本尊“波切不動明王像”が宝尾から勧請されたという伝承を、以前ここでご紹介しました。
実はこの不動さん以外にも宝尾から金剛院へ移された仏像があると云われていて、昨年までこのことについては全く知りませんでした。
今日はこの『もうひとつの山を越えた仏像』について触れられている、舞鶴文化懇話会会報の記事を抜粋してご紹介します。


金剛院にまつわる話。

金剛院関係者、舞鶴の人には心地の良い響として耳に入り難いと想い、永らく胸底に潜めて秘めておりましたが、私もようやく馬齢を重ね、鬢も髪も青葉山の頂に降り積る雪よりも白くなり、来迎の近きを考え、禿筆を咬み、手に息を吹きかけながら、筆を走らせる次第。
不快の響と聞こえましたら、耳を洗われたし。

昭和三十五年頃、友人某、我が陋屋に来りて告げるには、若狭の佐分利村の山奥に川上と称する部落在り。
その在所の一番奥の農家のF家に、平安・鎌倉期の仏像が多数存するとのこと故、一度拝見に出むかんとのこと。日を定めて訪問することと決し、某日出かけました。

F家に至り、門を叩く。
90才程の年で腰が弓の如き老嫗と、70歳程の老婦の二人が在宅されており、我達二人遠方より来り、貴家に伝わる仏像を拝見したき旨申しますと、遠き処からようこそと、家へ招じ入れられる。

一歩屋内に入り廻りを見ますれど、昔の山奥の農家のこと故、昼でも屋内は暗い。ようやく暗さに目がなれたころ、縁側の雨戸を一枚くる、
さっと射込む陽光で屋内の仏像が浮かび上がる。

淡いあかりを受け、あまり大きくもない古い仏像が10体程、
薄明の針光の中でかすかに微笑むが如くにして鎮座なされてましまする。
正しく平安・鎌倉仏、室町仏もまじってござる。

私は凝然として佇立するのみ。

今もこの文を書いておりますと、あの時の戦慄が蘇ります。
礼を失した云い方ですが、山奥の農家にこの様なものが存在するとは夢想だにしませんでした。

拝し終り、囲炉り端で山茶を喫しながら、この家に伝わる謂われと申しますか、故事来歴と申すものを、90才の嫗が、歯の抜けおちた口で赤い歯茎をもぐもぐとさせながら、70歳の老婦の助けを借りて、訛の強い若狭弁で訥々として語る話を拝聴させて戴きました。

30年後の今、我が耳底に残るその時の言葉を多少標準語に置き換へまして誌しておきます。

嫗の話。

「うらが(90嫗が)子供の頃より、お爺さんから時々聞かされた話では、この山の奥の方に谷が開けて平になった処が在ります。
そこには千年の昔から寺が在りました。七堂伽藍が並び建ち、真中には高い天までとどく七重の塔が聳へておりました。

私達の家はその寺の前に住んでおり、代々寺へ仕へておりました。
途中の頃から(室町時代か)寺がだんだんと衰微いたしました。江戸時代の末頃になって寺は荒廃し、維持が困難になりました。
私達の先祖も寺が無くなれば世過ぎが出来なくなりますので、山を降りることとなり、明治の始め頃に山麓に土地を求めて家を建て、そこで暮らしをする様になりました。

…が、寺に在る仏さんと、仏具・寺道具・寺の書き付けを、そのままにしておいては罰が当ると云うので、何体かの仏さんと緒道具・緒教典は本家が預ることとなり、分家の我が家には小さな仏さんを何体か預ることとなりました。
そして、寺の大きな仏さんは在家に置くものでは無いと云うことで、皆の衆は協議の上で、鹿原に在る金剛院さんへ納めることと相なりました。

農閑期の暇が出来ました時に、うらの(90嫗の)爺さんが連尺に背たら負うて、山を越へて金剛院さんへ納めましたと、聞いております…。

本家に預りました仏像・仏具・書き付けその他一切のものは、その後家中のものが山仕事に出ている間に、家から火が出て家が丸焼となり、一物も残さず灰となりました。
分家の我が家に預った小さな仏さんの内のわずかばかりが、今、家に伝わっておりますこの仏さんです…。」と

 
長い話を聞き終り、一息ついて、ふと縁側を見上げますと、一枚くった雨戸の向うに、木の皮の様なものが軒先に簾の如く多数干してあるのが目に入る。

聞けば、藤の皮とのこと。このあたりでは、これにて布を織り野良着や、カルサンを作ると云う。
珍しきもの故織り上げし節一反割愛下さるべく申してその家を辞す。

三年後の昭和三十八年、再訪し約束の藤布一反戴く。

時岡氏に手渡された藤布(ふじふ:下)と、藤布の衣類(上)
藤は木綿が登場する室町時代までポピュラーな繊維素材として、日本各地で用いられていました。


明治の始め、村人達に抱かれて山麓へ降りた仏像の一部は農家の家奥に、今もひそと残り、古代の藤布は我が掌中に在り。

嫗の父親に連尺で背負われ、村人達に見おくられて鹿原の金剛院へ旅立った仏像、深州大将と執金剛像は、今も金剛院に鎮座して衆生に慈悲を施す。

二仏共にアン阿彌陀の墨書銘在り。
鎌倉時代快慶の初期作として国の重要文化財に措置されております。

江戸末期の『丹後国加佐郡志楽庄鹿原山金剛院霊宝記』には、深州、執金剛二仏の記載を見ず。然し、明治以後の金剛院宝物帳には二仏が揚げられております。このこと、何と解釈致しましたら良いのでしょうか。

あなたの考えをお聞きしたい。

             平成二年一月十四日  寒けれど雪なし

註 若狭の農家では自分のつれあい(主人)を呼ぶ場合、中年ならば「お父さん」と呼び、老年ならば「お爺さん」と呼ぶ。嫗の話の「お爺さん」は祖父でもなくつれ合いでもなし。この場合は自分の父親のこと。嫗は明治三、四年の生れ、父親は当時三十才前後か。二嫗共に旅立つ。

(舞鶴文化懇話会会報 時岡 侃 金剛院稗史より抜粋)

文中の宝尾より金剛院へ移されたという二体の仏像“深沙大将像(左)と執金剛像” 快慶の初期作(鎌倉時代)として国の重要文化財に指定されています


文中では分家を訪れたとありますが、その家(在所の一番奥)のお爺さんにお聞きしたところ、仏像や藤布のことはご存知ないようでした。そこで本家出のY氏に伺ったところ、時岡氏は本家も訪問されたようです。
昭和35年といえば宝尾が廃村となって10年経つか経たないかの頃。山を下りても本家ではまだ藤布を織って野良着にしていたそうです。
しかし、藤布を織ることが当時この辺りで一般的だったわけではなく、宝尾から下りてきた家など一部のものだったのではないかと思われます。(管理人)


元記事の投稿日時 2010年5月25日 (火)