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断捨離と終活

断捨離は思い切り

現代のわれわれの暮らしは、ものが溢れている。そのうえ歳を経ると、長年の暮らしで使い馴れたさまざまなものが澱のように溜まり、想い出を伴うので、これらをなかなか手放せない。捨てるには、思い切りが要る。

人生の黄昏には、生そのものを捨て去らねばならぬので、その前に身内に迷惑をかけぬよう身辺整理をしておこうと、思い切って終活に入るが断捨離はなかなか難しいと気付く。断捨離と終活は当世の流行り言葉であるが、そもそも余計な荷を持たなければ、執着も軽くなり、気が楽である。

暮らしにものが溢れ、それらを居住空間に置くと、空間の空きスペースは狭くなる道理である。結果、部屋が雑然とする。余計なものをできるかぎり取り払うと、空間を最大限活かすことができる。日本家屋の本来の使い方は、寝室のベッド、居間・食堂のテーブル(ちゃぶ台)や椅子(座布団)さえも固定的でない。納戸や押入れにこれらのものを収めて、布団を敷けば寝室になる。座布団を敷き、ちゃぶ台を置けば居間であり、食堂である。

日本文化は引き算

「日本文化は引き算」の文化であると言われる。まったくその通りと思える。不要のものはもちろん、不可欠、最低限のものを残して、それ以外はすべてそぎ落としていくのである。結果、歌舞伎や芝居の廻り舞台のごとく、場面転換が容易になる。能舞台にいたっては、大道具、場面転換すらなく、謡いで済ます。谷崎潤一郎の『文章読本』によると、日本語の文章は、西洋語のそれに比べて、構造と時制(テンス)が不完全である。これを補うのに文書は簡潔を旨とし、主格も往々にして削られる。言葉をけちり、含みを保たせるとある。いにしえの時代より和歌や短歌が好まれ、多くの歌集が残されているのも故ないことでは無い。

簡素、質素を旨とする生き方、簡潔を美とする考え方は家屋にも反映している。先に記したように、小さな空間を有効に活かす工夫がされているからである。暮らしのなかに洗練された最小限のものを調える。余計なものはもたない、置かない。かといって、暮らしを豊かに彩る設え(しつらえ)もときに必要である。床の間は、時節に応じて、これを出して飾り楽しむ和様のユニークな空間である。わび茶の精神と茶道具、数寄屋建築と庭園はその結晶ともいえる。

他方、限定された屋内空間を無限のものとする智慧がある。自然の景色を取り込むのである。これには伝統の木造建築が最適である。建屋を柱・梁からなる簡明で開放的な構造とし、濡れ縁を介して庭をつなぎ、背後の山川を借景に用いる。自然(庭)と住宅(シェルター)との境界に軒の深い「縁」、つまりバッファーゾーンを設けて、障子を通して、柔らかな日の光と大気を取り込むのである。屋内にあってなお、自然に憩う気分を満喫できる空間を望ましいものとしている。

わが国家屋の構造は、シェルター機能を重視する欧州北部地域のような窓の小さい造りの住宅とは明らかに異なっている。温暖多雨のわが国は欧州と気候風土が異なるので、当然と言えば当然であるが、「木と紙と土」でできた日本家屋の特徴は際だったものがある。ちなみに、明治以降に本格的な開発が進んだ北海道の家屋は寒冷な気候に対応して、どちらかといえばシェルター型の住宅構造に近いように思われる。

終活に向けて

さて、終活というのもなかなか難しいものである。
「就活」は、就職活動の略であるが、「終活」は広辞苑にも記載がない。ネットで調べると『「終末活動」の略か?』とある。あまりうれしくない話ではあるが、しかし、生命には必ず限りがあるので、何人も避けて通れない。終活は、人生の終末を迎えるに当たり末期治療や葬儀、相続などについての手配を元気なうちに予め準備することであろうが、就職活動と異なり、「いつ?」という時期が明示的でないので、「いつ、はじめるか」、スタートすべきタイミングがよくわからないまま、時間だけがずるずると過ぎていきそうである。

筆者もぐずぐずしている者のひとりであるが、紛れもなく、まもなく後期高齢者である。この齢になると、健康が一番ではある。これまでは太りすぎに注意し、高血圧や脂質異常症などのメタボ症候群(生活習慣病)の予防に腐心していたが、これからは加齢により生じる筋肉の低下(サルコペニア)に要注意と、K病院のI先生から教えられた。

健康寿命の末期は要介護や虚弱(フレイルFrailty)に陥る危険が高まる時期である。つまり、しっかり食べてサルコペニアやフレイルを防ぐ。いわゆる介護予防のために、良質のタンパク質をしっかり摂取し、適度に運動して筋肉量を維持するのがよいらしい。こうして「ねんねんころり」だけは避け、なんとか「ぴんぴんころり」と逝きたいものである。

写真:『すばらしい木の世界』1995年(海青社)より


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