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めでたくもあり めでたくもなし

令和三年の正月

正月元旦というのは不思議な日である。とくに何が変わるわけではないのに、元旦の朝は清々とした気分が感ぜられ、新たなときを迎える気持ちになる。子供の頃は、枕元に置かれた真新しい下着に身を包むだけで、ことさら気分が一新したものである。肌着の冷たさにからだがきゅっと引き締まるのか、世界の空気が変わった気持ちになったから不思議なものです。

けれども、コロナウイルスの感染が拡がる第三波のおかげで令和三年の正月は特別なものとなった。ひとびとの帰省が制限されるなか、都会も田舎も静かな正月を迎えることになりました。コロナの感染は若い人には、概して病状が軽く、場合によってはほとんど症状が見られない、つまり、病気ではないのです。ところが、年寄りが感染すると重篤化する傾向があるので、始末に悪い。もっとも、これはウイルスの生き残り作戦でもあるらしい。

このパンデミックは20世紀以来のグローバル化の産物であり、とくに都市を中心にして人や物の往き来が盛んになった結果です。人と物のネットワークを通じてコロナウイルスの伝搬が拡大していったのです。感染症の拡大は、家族、部族、クニから国家へ、そして更に地球規模へと拡がった人間活動の歴史に根ざしたものですので、これを撲滅するのが難しい。

現に、人の動きに応じて拡がるので、ウイルスの感染拡大は、都会と地方では状況が大きく異なります。マスコミは東京や大阪など大都市圏の状況を詳細に報道しますが、地方や田舎では感染者がほとんど見られないケースも多いのです。政府が大網を打つような一律の施策は無駄が多く、地域によっては必要以上に人の行動を制約する場合も生じているのでないでしょうか?統計を駆使したマクロ的視野は全体把握のうえで大変重要ですが、ミクロ的視野を地方行政が組み込み、大都市から離れている中小都市や農山村の仕分け、つまり、人口密度や老齢人口の比率、地域の産業、罹患状況、重症者率、医療看護施設などについて、きめ細かい分析が必要ではないかと考えます。

生物のいのちが互いに複雑なネットワークでつながっていることを生態系ネットワークと呼びますが、新型コロナウイルスもこの一環を担っています。ウイルスをやっつけることは、人類にとって疫病退散という望ましい効果の反面、将来負の効果を生み出す可能性もあります。したがって、細菌やウイルスとうまく付き合ってしていくことも重要な視点です。

生命のネットワーク系は遺伝子のゲノムを通しても繋がれていますが、経済もまた貨幣を通して複雑なネットワークを形成し、社会システムもまた深層で人間の心や精神のネットワークで結ばれているようです。東日本大震災(2011年)や現在の新型コロナのパンデミック(2020年)などの大災害時には、こころの絆(きずな)や助け合いが強調されますが、21世紀の情報技術の革新はこのようなさまざまな複雑系を情報(ビッグデータ)として一元化しつつあります。いわば、ヒト、モノ、カネが電磁波を通した情報によりつながっている社会が形成されつつあるように感じます。

冥土の旅の一里塚

正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

よく知られた一休禅師の正月の句ですが、齢七十を越えると、この言葉が現実味を帯びてくる。若いころには祖父母が逝き、次に父母が逝く。年齢に応じて世の中から去って逝くので、別段不思議はないが、その次には先輩と次第に自分と同年配に近づいてくる。けれども最近になると段々先輩諸氏から同輩に次々鬼籍に入る方が移ってきて、淋しいかぎりである。つい先だっても懇意にしていた東大のA先生の訃報が届いた。わたしよりまだ少し若く、企業との連携や社会活動にも熱心な先生でした。木づかいに関わる提言・運動やNPOの起ち上げで苦労を共にしたA先生の冥福をお祈りしたい。

ひとはいにしえより長寿を望み、不老不死を期待し望むも、これまでこれを成し遂げたひとはいない。生き物であり、細胞の寿命にも限界があり、その分裂増加にも限度ある以上、仕方がない。

仏教は「諸行は無常」として、人のいのちも因縁により生起し、「引き寄せて結べば草の庵にて 解くればもとの野原なりけり」(慈円)と、寿命が尽きればもとのもくあみよろしく大気と大地に返ることを示しています。それゆえ、今在るいのちを一生懸命生きることを説いている。いのち在るうちは、縁に因りて生かされていることに感謝し、よりよく、おだやかに生きたいものです。

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