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情けは人の為ならず ぶん殴りたい場合

クルマで人を轢いてしまったが、そのまま逃げてしまった、とか、

鉄の斧を落としたのに、金の斧を落としましたと言ってしまったとか、

とっさに自分が損にならない様に不正をしてしまう、

という事が有るけれど、

大昔からそういう事をする人間が一定数以上居たのだろう。

だから池から妖精が出て来て金の斧ですか?銀の斧ですか?と聞く話や、

竜宮城で大小のつづら箱を選ばせる話などが有るのだろうと思う。


損して得取れ、だの、急がば回れだの、情けは人の為ならず、だの、

そういうことを戒める言葉もたくさん有る。

こういう幼稚園レベルの基本的な道徳心が、あまりにも希薄になってしまっていると感じる。

学校時代でも、イヤでも普段からきちんと勉強しておけばテストの時に慌てないで済む、とか、

正直に自分の悪い事を認めればかえって褒められる、とかを経験したはずだ。

クルマで人を轢いてしまったのなら、もう観念して正直に行動したほうが、

かえって自分の為になる、というのは本当に幼稚園レベルの道徳なのだと思う。

そういう事が出来ない大人というものは、太古の昔から一定数は居たのだろうと想像できるが、

せめて8割が正常な人間であって欲しいと思う。

大の大人がケンカしているのを見ると、どっちが悪いも何も無く、

要するに両方悪いと思うのだ。

相手が口で言っても解らない幼稚園レベルであると解ればケンカでも良いと思うけれど、

そうではないレベルの大人同士ならケンカにはならないのだ。

今は苦しいけれどこれをやる事で後で自分が楽になるのだ、とか、

その場では損をするが長い目で見れば得になるのだ、とか、

そういうことを考えないで、その場だけの得に飛びついてしまうというのは、

ちょっと頭が悪すぎるのではないだろうか。


国会議員になって賄賂を貰って国会で特定の利益誘導の為の質問をしたり、

世の中の為という名目で活動して集めた金を横領したり、

人脈と称して裏から手を回す様な仕事をしたり、

幼稚園レベルの大人が多すぎるのではないだろうか。


昔の学校では道徳の時間以外にも、こういうことを良く教えられたものだった。

「お天道様が見ている」という感覚を持つ様に育てられたと思う。

落ちていた財布を拾って「ラッキー!」と思ってしまうというのは、

自分への冒涜ではないだろうか。

「落とした人はさぞ困っているだろう、交番に届けよう」

と思う自分で居たいと思って生きていれば、精神状態も良くなって、

色々な事がうまく行くのではないのだろうか。

そういう人が殆どの社会というのは、とても安心して暮らせる社会なのだ。

結局自分も楽になるのだ。


さて、ごく一部の、少数派の、道徳を持ち合わせない、幼稚園レベルの大人が居る。

そういう者には厳罰を処する社会であっても良いのではないだろうか。

無礼で暴力的な人間はぶん殴っても良いのではないだろうか、と思う。

法的に正当防衛が成り立つかどうかを気にしなければならないのは少々窮屈だ。

明らかに酷い事をしている人間はその場でぶん殴っても罪に問われない、

という法律を、そろそろ作っても良さそうに思う。

日本の社会が守って来た信頼を壊さない様に、移民難民などの問題も、

目先の利益ではなく、よくよく考えた上で、決めて貰いたいものだ。





きちんとする心 治安維持

暗澹たる気持ち どんどん壊れてゆく

やっぱり人間性の問題 人間は社会で生きている





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