信頼
「生きもの」、が死ぬ瞬間を見たことがあるのは3回だけです。
おばあちゃんのとき、
りゅうのすけのとき、、、。
その瞬間、力が抜けるからなんでしょうか、小さく口を開いて、
ハァーーっと息をはく様に見えます。
まるで、口から魂が抜けて天に昇っていくみたいな感じがします。
りゅうのすけの時は、ずっと俺の手の中にいました。
大好きなリンゴジュースで口を湿らせてあげたり、話しかけたりしていましたが、小さく口を開けて、ハァ、と言いました。
あ、
りゅう、、、、
行ったのか?
そうか、、、、
行ったか、、、。
俺もあとから行くから、待ってろよ。
と言って涙が流れました。
悲しかったけど、とても、ほっとしました。
手の中で行ってくれたから。
もう、病気をする心配も、怪我をする心配も無くなったから。
死ぬというのは、なんというか、そんなに恐ろしいものではなくて、
なんという か、ほっとする様な、「安らか」という言葉がぴったりくる瞬間の様に思います。
もちろん、看取ってもらって死ねる時の話ですが、、、。
じゃあ、俺はどうやって死にたいか。
豆腐屋の角で頭をぶつけて死ぬとか、
ネギで滑って倒れたところに鴨が墜落してきて死ぬとか、
「パチンコ」の看板の「パ」から下が落ちてきて大当たりして死ぬとか、
なんかこう、ばかばかしい死に方がいいなあなんて思ったりします。
ばかだねーーって、 葬式の最中に思い出して吹いてしまうような、
笑い飛ばされて死にたい、って感じがします。
愛するものが死んだとき、もう病気も怪我も心配ないと、ほっとする感覚。
どうせ、俺も後から行くんだから、死んだってかまわないよ、という感覚。
うまく説明できないけれど、「津波てんでんこ」に良く似ている。
例えば母と子が別々の場所にいる時に地震があって津波が来る、というとき。
三陸地方には「てんでんこ」という言葉があるそうです。
母が子供を探しに行ったりせず、
あっちも必ず一人で高台に向かっていると信じ て、自分も一人で高台に避難する、ということだそうです。
心配で探しに行くのではなく、相手を信じて別々に避難する。
こうする事で命を守る知恵なのだそうです。
思い出します、高校生の頃、友達と「人生」や「愛」について語り合ったとき、
本当の愛って、見つめ合うことじゃなくて、
二人で同じ方向を見る事なんだね、って話したのを。
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