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#055 「絨毯織り」人間の絆-下巻(モーム)

人間の絆(下巻)の絨毯の話が印象に残ったのでシェアです。

場面の説明としては、フィリップは、戦場で旧友ヘイワードが腸チフスで亡くなったことを知ります。この小説の主題と思われる人生観が伝わる文章でしたので、読み返す意味でも長めに書いていきたいと思います。

※こちらの書籍のP447くらいから10ページ弱の文章を抜粋しています



1. 紀元前から繰り返す「別れ」の歴史


そしてぼんやりと部屋の周りに置いてある墓跡を眺めた。紀元前四、五世紀のアテネの石工が作ったもので、形は実にシンプルだ。(中略)また、裸体像もある。長椅子に腰掛けている像もあれば、自分を愛してくれている人々と別れて死にゆく像もあれば、のちに残していく人々の手を握りしめている像もある。全てに「別れ」という悲しみの言葉が刻まれている。ただそれだけだ。その素朴さが強く胸を打つ。友と別れるとも、母親と別れる息子。なんの飾りもないその一言が、残されたものの悲しみを一層痛切に物語っている。気の遠くなるほど長い時間が、何百年もの時間が、この不運の上を流れていった。2000年の間に、別れを惜しまれた人も、別れを惜しんだ人も塵になった。だが、その嘆きは今でも生きている。それを思うと、フィリップは胸がいっぱいになり、心の底から悲しみが込み上げてきて、つぶやいた。
「なんて、はなかいんだ」


フィリップはまず、友人ヘイワードの死に際して、美術館に向かいます。そこで石工の作品を見ていると、それぞれの作品に共通したテーマ、「別れ」に着目します。どんなに時代が変わっても、「別れ」というテーマは今後も続いていく普遍のテーマ。



2. 友情という模様


そしてふと考えた。ぽかんと口を開けている観光客も、ガイドブックを持っている太った外国人も、デパートの売り場に群がるありふれた欲望と低俗な趣味のどうしようもない人々もみんな、寿命があり、死んでいくのだ。彼らもまた人を愛し、愛した人と別れていく息子は母親と、妻は夫と。そして醜く惨めな人生を送ってきただけに、悲劇は大きい。この世界に美を与えているものを何も知らないのだから。ここに一際美しい墓石がある。手を握っている2人の若者の浮き彫りだ。実に少ない線と、シンプルな掘り方に、、石工の直向きな気持ちが窺えるここで讃えられているのは、世界がわれわれに提供する2番目に貴重なもの、友情だ。フィリップはこれを見て、涙が込み上げてきた。そしてヘイワードのことを思い出した。最初に会った頃は心から尊敬していた。それから幻滅し、無関心になり、最後は習慣と昔の思い出以外に共有するものは無くなってしまった。人生というのは不思議なものだ。何ヶ月も毎日のように顔を合わせ、とても親しくなって、相手のいない日常など考えられないほどになって、別離が訪れたかと思うと、また全てはなんの変化もなく続き、かけがえのないものに思われた相手はいなくても良かったことに気づく。人生は続き、彼がいなくなったことを悲しむことさえない。あのハイデルベルクで暮らし始めたばかりのことを考えてみた。ヘイワードは将来はなんでもできそうで、大きな野心を抱いていたが、何一つ実現できず、次第に自分を敗残者と考えるようになっていった。そんな彼も死んでしまった。彼の死は、彼の人生と同様、不毛だ。ろくでもない病気にかかって惨めに死んでしまい、最後まで、何も成し遂げられなかった。結局、彼が生きていたことにはなんの意味もない。

友情の石碑(ChatGPT作成)


次に、友人ヘイワードの空虚だった人生に思いを巡らせます。友人ヘイワードに対して「彼が生きてきたことに何の意味もない」と評するのは流石にどうかと思いますが、フィリップにはお世辞とか優しさという概念は欠如しており、そして欠如していること自体は物語を読む上であまり重要ではないのですが、ヘイワードの関係を装飾せずに素直に描写しているところが印象的でした。

尊敬、幻滅、無関心。誰かとの関係性の中で、こうした推移を辿ることは、誰しもあるのではないでしょうか。



3. 故人の売れ残った詩集


フィリップは絶望しつつ自問した。生きることになんの意味があるのだろう。全てが愚かしく思えた。クロンショーも同じだ。彼の人生も全く無意味だった。死んで忘れられ、詩集は売れ残って、古本屋に並んでいる。彼の人生は、ひとりの目立ちたがりのジャーナリストに序文を書くチャンスを与えること以外なんの役にも立たなかった。フィリップは心の中で叫んだ。
「いったい何の価値があるんだ」

フィリップの次は故人クロンショーの人生にも思いを巡らせます。フィリップ曰く彼の人生も、「全く無意味」だったそうです。他人の人生が無意味と評するのは簡単ですが、では「意味がある」人生とは結局何なのか。そういうことが気になってきます。



4. 人類はほんの一時期、この地球の表面を借りているに過ぎない



努力と結果とは全く無関係だ。若い時の明るい希望は、幻滅という苦い代償を払わなくてはならない。苦痛、病苦、不運のおもりが重すぎる。人の生とは何なのか。

(中略)

フィリップはクロンショーのことを考え、彼からもらったペルシア絨毯のことを思い出した。人生の意味を教えてくれるといわれた絨毯だ。その答えが、不意に頭に浮かんだ。フィリップはクスッと笑った。そうか、謎謎のようなものだ。答えがわかってみれば、なぜ気がつかなかったのか首を傾げたくなる。答えは明らかだ。人生に意味などない。この地球、宇宙をめぐる恒星の一惑星に、その歴史の一時期の環境的条件のもとで生命が誕生した。その時芽生えた生命は、その条件が変われば、潰えてしまう。人類も、他の共同体同様に意味のない存在であり、それは創造の頂点において生まれたのではなく、ある環境への自然な反応として生まれたのだ。
(中略)
フィリップは歓喜した。10代の頃、神への信仰という重荷が肩から消えた時の歓喜を味わった。責任という最後の重荷から解放されたような気がした。そして生まれて初めて、完全に自由になった。自分が無価値だという自信は力に繋がった。そして突然、今まで自分を迫害してきた残酷な運命と対等になったように感じた。もし人生に意味がないなら、この世界には残酷さもないはずだ。自分が何をやり遂げようが、何をやり残そうが、そんなことはどうでも良い。失敗かどうかも問題ではなく、成功かどうかも意味がない。自分は人類という巨大な群の中で最も価値のない生き物なのだ。そして人類はほんの一時期、この地球の表面を借りているに過ぎない。そして今自分は、混沌ん絡むの意味を掠め取り、万能の存在になった。次から次に様々な考えが、真空状態の頭の中に湧いてくる。フィリップは喜び、心から満足して思い切り深呼吸した。飛び上がって歌い出したかった。こんな気持ちはもう何ヶ月も味わったことがない。


クロンショーからもらったペルシア絨毯のことを思い出し、フィリップは「人生に意味などない」と悟ります。人類を生命科学の視点から捉えます。人間という種は環境の条件から生まれたもので、環境的な条件が変われば潰える存在です。「人間は創造的な種で、個人個人も特別な存在」というのは誤った仮説で、「人間は他の種と同じ共同体。個人個人に意味などない」わけであり、となると個人の人生には意味などないのです。

「そして人類はほんの一時期、この地球の表面を借りているに過ぎない。」という表現も印象的でした。宇宙の話を持ち出すと人間という存在の小ささが際立って感じられますが、嫌なことがあった時はこの一節を思い出したいと思うと同時に、嬉しいことがあった時も「人生など無意味」と考えてしまいそうになります。いや、人類という種で見るとイーロン・マスクも自分も大差ないのかもしれません。


5. 絨毯織りの職人は何の目的もなく、ただ美しいものを作る喜びに浸ってあれを織った


この高揚した想像の噴出は、数学的論証の力を持って、人生には価値がないということを示してくれたのだが、もう一つ教えてくれた。それは、おそらく、クロンショーがあのペルシア絨毯をくれた理由だ。絨毯織りの職人は何の目的もなく、ただ美しいものを作る喜びに浸ってあれを織った。そんなふうに人生を生きることもできるではないか。また、何一つ思うような選択ができないまま生きてきたと思っているのがわかるはずだ。何かをする必要もなければ、したところで何の益もない。やりたければ、やればいい。人生の多くのことから、行動や感情や思考など全てのことを素材に模様を描くことができる。それは整然としたものかも知れず、精緻なものかも知れず、複雑なものかも知れず、美しいものかも知れない。それは本人が勝手に選んだ幻想に過ぎないかも知れないし、月の光を織り込んだ夢想かもしれないが、それはどうでもいい。そう見えるのだし、本人にとってはそれが現実なのだから。

この一節が、この書籍で1番好きなパートです。結局人生に意味はないのですが、「やりたければ、やればいい」ということです。

やりたければ、絵を描けば良いし、やりたければ、文章を書けばいい。やりたければ、子供を育てれば良いし、やりたければ仕事に従事すれば良い。

ただし、「何かをする必要もなければ、したところで何の益もない」という前提は覚えておく必要がありそうです。


6. 横糸は自分で選ぶ


人生という縦糸−−どこの水源ともなく湧き出て、どこの海へともなく洞々と流れる川のようなもの−−のなかにいても、意味もなければ重要なものもないと考えれば、好きな横糸を選んで重い思いの模様を織り上げることができる。最も明白で完璧で美しい模様が一つある。それは生まれ、成長し、結婚し、子供を作り、パンを得るために苦労し、死ぬ、という模様だ。しかし他に複雑で不思議なものもある。そこでは幸せの入り込む余地がなかったり、成功を望むべくもなかったりするが、そういったもののなかにこそ、不穏ではあるが素晴らしいものが見つかったりする。いくつかの人生では−−ヘイワードの人生もそのうちの一つだが−−運命が独断的に冷徹に、模様が完成する前にそれを中断させてしまうこともある。しかしそれもまたどうでもいい、というのは大きな慰めだ。クロンショーのような人生模様は理解し難いが、見方を変え、古い価値観を改めれば、そんな人生もそれなりに正当化できる。


ここも素敵な表現だと思いました。人生を絨毯と例えると、縦糸は人生の時の流れを表しており、縦糸自体はどこからともなく流れてくるもの。個人の意思でコントロールできるものではなく、突然終わりが来たりもする。

しかし、横糸は、自分でコントロールできるものです。人生という縦糸に対して、どの色の糸を用いて、どんな模様を描くかどうかは個人に委ねられているということでした。古今東西、完璧に美しい模様は、「それは生まれ、成長し、結婚し、子供を作り、パンを得るために苦労し、死ぬ、という模様」だそうですが、この模様にこだわる必要もありません。歴史上の著名な人物も、必ずしもこの模様のために有名だったわけでもありません。

今回、生成AIによって織物をしている人物を描いてもらいましたが、まさしく縦糸に対してどんな模様を描くかどうかは自分次第ということが視覚的に理解が得られてとても良いと思いました。


7. 幸福以外の尺度で考えれば良い


フィリップはこう考えた。幸せになろうという願望を捨てれば、最後の幻想も拭いされる。この人生を忌まわしく思ってきたのは、幸福を尺度に考えてきたからだ。しかし今は違う。力が湧いてきた。他の尺度で測ればいい。幸福も苦痛と同様、取るに足りない。どちらも、人生の他の細々したものと一緒に入り込んできて模様を複雑にするだけだ。フィリップは一瞬、自分の人生を作り上げてきた多くの出来事の上に立ってみた。すると、今までと違って、それらの影響を感じないでいられるような気がした。これからは何が起ころうと、人生という模様が複雑になる動機が増えたのだと考え、死が近づいたら、その完成を喜べそうだ。それは一つの芸術作品だ。自分しか存在を知らないからといって、自分が死ねば消えてしまうからといって、その美しさは少しも損なわれるわけではない。
フィリップは幸せだった。

人生を幸福か、不幸かという1つの尺度で捉えると、人生は忌まわしいものと捉える可能性がありますが、人生は一つの芸術作品だと捉えることができれば、何か起こった時もまた絨毯に一つの模様が増えたとある意味楽観的に捉えることができます。

「これからは何が起ころうと、人生という模様が複雑になる動機が増えたのだと考え、死が近づいたら、その完成を喜べそうだ。」


まとめ


「人間の絆」を上下通して読んでみて、このペルシア絨毯に関するフィリップの考察が非常に印象的でしたので引用させていただきました。上下巻通して非常に面白い一冊でしたので、まだお読みで無い方は是非。


過去の記事ですが、読後の所感なども載せています。


ここまでお読みいただきありがとうございました!

おしまい。

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