論語注疏で漢文白文の切り方でも練習してみようかのコーナー(古舘4-1
儒家系の思想に、その人個人の生き死に富貴その他はその人個人の善行悪行とはまるで関係がなくて、もう何もかも最初から決まっているのでどう動いたところで長生きのやつは長生き、短命のやつは短命、現世での言行が関わるものでは全くないというそれが結構出てくる。
その人個人のレベルではそうなのだけど、これが為政者に対して、となると「(儒家的な)いいことをすればこの世はすべてうまくいくのだから儒教的ないいことしなさい(徳地主義という)」レベルになる。
そこらへん、納得のいかない人らは数千年前からいて「天道是非」論を展開しているがそれは知りたい人がマウス操作してGoogle検索するといいですその検索が道となりその検索が道であると猪木も言ってるからぜひそうなさいませ。
その、「個人の運命なんか言行の是非善悪にまるで関係ないわwww」は、ベッカムなんかタトゥーにまでしている。同じ書体で同じ文字列のタトゥーをかなりの数みかけているのできっとどこかにテンプレでもあるんだろう。
実際、カタギの人が白文を読む練習題材として『論語』というのはとても不適当であると私は思っていて、それで白文読んでみようみたいな白文読解入門本をみかけると「そのテキスト選択はあまりよろしくないwwwおまえらのやっとるのはただの有名箇所の暗記に毛の生えたようなもんじゃ」と思っている。反論があったら言ってくるといい。大事なことは繰り返す。白文読解入門に『論語』はあまり題材としてよくない。
本題
命矣夫斯人也而有斯疾也斯人也而有斯疾也
これは基本ひとかたまり。「命矣夫」は「斯人也而有斯疾也斯人也而有斯疾也」の下にあったものが一番上に飛び出てきたもの。だから疏ではここをひとまとめにして注釈を行う。
この文で余計なものをとっぱらってしまうと、「命!!斯人!!有斯疾!斯人!!有斯疾!」だけになる。もっというと、「命」は目立たせたいために一番前に陣取っている。この文を大人しく目立たないように表現すれば「この人がこの病気になるなんてな……運命なのか……」なんだけど、それだど孔子の哀惜と興奮が伝わらない。人間だいたい感情が高ぶると倒置法をつかい同じ言葉を繰り返す。
(つづく