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不確実性の高い世界をきりひらく道具『中動態』について考えた夜のはなし

今日はコルクラボのイベントで、佐渡島さんと松本紹圭さん(お坊さん)の話を聞いた。仏教は以前から興味のあるジャンルだ。ウェルビーイングを考えている方の多くが仏教思想からもヒントを得ているらしいので気になっていたのである。ナイスタイミング。

特に興味があるのは『中動態』という考え方だ。

僕は最近まで人の行動は『能動態』『受動態』いわゆる『する・される』の分類がすべてだと思っていたんだけど、そのどちらでもない概念が存在していて中動態と呼ばれているらしい。(能動態と受動態の間が中動態というわけではない)

國分功一郎さんの書籍によると、中動態は古代ギリシア語の思想に由来している。能動態と比較されることが多くて、そこでは能動態は『主体が行動を制する、超越的な存在』であるのに対して中動態は『主体は場であり、行動に巻き込まれる存在』としている。

具体的文例だと↓こんな感じかな。
・私は眠くなる(能動・受動の世界)
・眠りが私を訪れている(中動の世界)

能動の世界が超越的な存在と言われると極端に思われるかもしれないけど、実際は私という主語が意思を活かすことにより行為を制御することができる存在であるかのような印象を受ける。

一方で中動の世界は私という存在は行為や活動に身を置き、揺さぶりを受けているとさえ感じることができるかもしれない。おもしろくない??

そんな話を2時間聴いていたのでした。

國分さんは、『する・される』で語られる世界が支配的であり、おそらく資本主義的でもあるために、そうでない世界の説明をするのが難しいと感じたのだ。そこで中動態の概念を用いて説明する試みを提示しているのかもしれない。

世界は『できること、すべきこと、したいこと』の3本柱に支えられて前に進んできたのだと思う。しかし、不確実性が高まっている近年、この3本柱では理解ができない、受け止めることのできない事象が発生しているというわけだ。

発酵研究家の小倉ヒラクさんは現代アートにヒントを見出し、予防医学の石川善樹さんは中動態にヒントがあるとおっしゃっていた。佐渡島さんからは多くの経営者が仏教にヒントを求めていると教えてもらった。こうして僕らはそれらの要素のおすそ分けを受けている。そんな夜だったように思う。

このように、ものごとの捉え方を切りかえながら見ていくと、偏見をはずしてフラットに向き合えるような気がするし、その柔軟性を持って不確実性の高い世界や輪郭を持たない問いに立ち向かえるはずだ。

コミュニティについて考える時も、それを料理するための道具がまだ不足している状態だ。だからこそ議論に時間がかかっても不思議なワクワクがある。こうした学びの機会から僕たちは道具をつくっていく。そして、自分たちでつくりあげた道具で料理をするんだな。

ということで抽象度がムダに高くなってしまったのでこの辺で。
またゆっくり考えていきたいと思っています。

それでは今回も読んで下さりありがとうございました!



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