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ゲーム会社の成り立ちを考えてみる

『ドラクエ』に関する話を書いていて思い出したことがある。
このゲームを発売したエニックス(現スクウェア・エニックス)の店舗が新宿の小滝橋通りにあった。現在人気のラーメン屋がある並び。35年以上前のことなのでちょっと記憶が曖昧になっているが。
同社は公団住宅(現UR)の情報誌を刊行する会社として創業していたので、その店舗には公団住宅の情報を掲載した情報誌かパンフレットが置いてあった。
ゲーム事業の部署は、新宿の他のビルにあったと思う。ファミコンの『ドラゴンクエスト』を発売したころの話だ。
今では社名がスクウェア・エニックスになっている。
 
一方スクウェアは、徳島県の電気工事会社電友社のソフト開発部門としてゲーム事業を始めているが、横浜市の日吉にあった。たぶん東横線日吉駅の西口にあったのではないかと思う。仕事上で付き合うようになったのは都内に拠点を移してからのことだ。日吉時代のことをもっと聞いておけばよかった。
ちなみに日吉駅の東口には光栄(現コーエーテクモゲームス)があった。
光栄は、栃木県の染料問屋だったが、襟川陽一氏(現コーエーテクモホールディングス代表取締役社長)がゲーム事業を始めることになる。
 
エニックス、スクウェア、光栄は1980年代PCゲームからゲーム事業を始めている。国内でPCが普及し始めたころだ。各社が開発したPCゲームを店舗に卸すためPCソフトの流通会社として国内トップシェアだったのが日本ソフトバンク(現ソフトバンク)だ。ビジネスソフトの売上は大きかったがゲームソフトの売上も結構あったと流通事業部の担当者に聞いたことがある。
 
PCゲーム以前に国内でゲームの市場があったのが ‎アーケードゲームだ。
アーケードゲーム会社の老舗タイトーは、1950年代からジュークボックスやピンボールをおもにアメリカから輸入し販売していた。1972年アタリが開発してリリースした『PONG(ポン)』がアメリカで流行ったのでそのコピーゲーム『エレポン』を開発・販売した。
同じころコピーゲームを開発・販売していたのがセガだ。1973年に『ポントロン』を発売している。セガもジュークボックスやスロットマシンを輸入して販売していた。
興味深いのは両社とも創業者が外国人だということ。彼らのビジネスネットワークがあったので戦後間もない時期にジュークボックスなど海外のエンタティメント機器が輸入できたのだろう。また、アメリカで『ポン』というビデオゲームが流行っているという情報も入ったに違いない。たぶん。
 
アーケードゲームではないが、任天堂も1977年『ポン』をモチーフにした様々なゲームを搭載したゲーム機カラーテレビゲームを発売している。いとこがこのゲーム機を購入していたので、借りてプレイしたがテニス、ホッケー、ピンポンなどゲームの種類は多かったものの基本は『ポン』だった。がっかりした覚えがある。当時任天堂はこうした玩具を開発し販売する会社だった。
 
ゲーム産業の創成期、アーケードゲーム次いでPCゲームビジネスに様々な異業種企業が参入した。各社業種転換してゲーム事業を中心にしたゲーム会社になっていくのだ。
その後任天堂がファミコンを発売して大人気になると、国内ではゲーム機を中心としたゲームビジネスが主流になっていく。当初ファミコン用にゲームを開発・販売していた会社は、前述のようなプロセスでゲーム専業となった会社だ。
これらに加え、多くの異業種企業がファミコンに参入した。1980年代後半こうした会社は、ゲーム専業に業種転換し、総称してゲームメーカー、ゲーム会社と呼ばれるようになる。

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