かわぐちようじ

元ゲーム雑誌の編集長をしていました。現在PC、スマートフォンゲームに関連した仕事に関わ…

かわぐちようじ

元ゲーム雑誌の編集長をしていました。現在PC、スマートフォンゲームに関連した仕事に関わっています。ゲームビジネスのこれまで、いま、これからについて書いています。

最近の記事

「予測できない」から「有望な」ビジネスへの転換

1980年代PCは「予測できない」ビジネスから、次第に将来「有望な」ビジネスへとシフトしつつあった。 そうした時期に国内初のPC専門誌が刊行された。発行元の工学社は代々木にあった。駅の近くにあった書店にときどき行っていたが、付近にぜんらくビルがあり、その中に工学社があった。ここが工学社かと近くまで行って意味もなく確認した覚えがある。 話がそれてしまった。 工学社は、1970年代後半にPC専門誌という新しいジャンルの雑誌を創刊した。その後いろいろな出版社からPC雑誌が創刊さ

    • 20年前に何があって何が変わったのか?

      この20年間にゲーム業界で何が起こり、何が変わったのか? というキャッチコピーは、公式サイトでの『ファミ通ゲーム白書2024』発売(8月22日)の告知記事のものだ。 紹介記事の中で、業界の変遷から見る『ファミ通ゲーム白書』の20年、という箇所があった。2004年は、ニンテンドーDS、PlayStation Portableが発売され、セガサミーホールディングスが設立されている。 この記事は、当時のことを思い起こすいい機会になった。 インターネット時代の新しいコンテンツビジ

      • 『マンホール』から始まりeスポーツにつながる話

        『マンホール』(Mac)というタイトルを大谷和利さんに紹介してもらった。1980年代後半のこと。 大谷さんは、1980年代から現在に至るまでApple関連のテクノロジーライターとして活躍している人だ。彼には、このゲーム以外にも『HyperCard』 (ゲームの制作等に利用されたソフト)など当時Appleに関する様々なことを教えてもらった。 『マンホール』は、画面をクリックすると次の展開につながる、独自の世界観をもったゲームだったが、アドベンチャーゲームのスタイルがないところが

        • PCゲームの時代は再来するか

          今年の1月元システムソフト・アルファーの宮迫社長に業界団体の懇親会で久しぶりに会った。かつてシステムソフトで『大戦略』に関わっていた人だ。家庭用ゲーム機のゲーム会社の人たちと会うことはあるが、PCゲームの会社の人に会うことはほとんどない。 ゲームを開発・販売していたシステムソフトは福岡市にあった。 同市内にはPCゲーム会社リバーヒルソフトもあった。『マンハッタンレクイエム』や『琥珀色の遺言』などアドベンチャーゲームが人気だった。 一度取材で同社を訪問したことがある。なかな

        「予測できない」から「有望な」ビジネスへの転換

          ゲームの歴史で残るもの、残らないもの

          ファミコンの開発責任者である上村さんと、久しぶりに話す機会があった。15年ほど前。当時上村さんは、任天堂の開発アドバイザーだったが、立命館大学の教授もされていた。 ユーザーが実際にファミコンをどのようにプレイしていたのか興味があるので研究している、と話してくれた。 それから話はゲームの歴史に移った。ゲーム開発者のインタビューや業績はアーカイブとして残っていくが、ファミコンのゲームを買ってくれたユーザーが、どういうふうにゲームに関わっていたのか、どのように情報を集めてゲーム

          ゲームの歴史で残るもの、残らないもの

          ファミコンの発売日にゲームデバイス(ゲーム機)の変遷を考えてみる

          1983年7月15日ファミリーコンピュータ(ファミコン)が発売された。 1985年『スーパーマリオブラザーズ』の大ヒットでファミコンは急速に普及していくが、ゲーム機というゲーム専用デバイスと専用デバイス用ゲームソフト(アプリ)製造・流通システムが連動したゲームプラットフォームビジネスも確立されていく。 その後任天堂とソニー(SCE→SIE)はゲーム市場におけるプラットフォームのシェアを争い、独自OS(Operating System)を搭載したゲーム機を次々にバージョンア

          ファミコンの発売日にゲームデバイス(ゲーム機)の変遷を考えてみる

          ゲーム業界40年の変遷

          この業界に入った1980年代中ごろ。アーケード、PC、ゲーム機といったゲームビジネスそれぞれに業界があった。 アーケードゲーム業界が最も古いが、アーケードゲームビジネスはゲビデオームだけを扱っていただけではなく、ピンボールゲーム機、輸入したスロットマシンやジュークボックス等も取り扱っていた。 一方PCゲーム業界は、PCの普及とともに参入してきた比較的若い人たちの業界だった。自社でカセットやフロッピーディスクにゲームを収録し、ソフトバンクやソフトウィングといった流通会社に販

          ゲーム業界40年の変遷

          『上海』と『クラッシュ・バンディクー』とPlayStation 5

          ゲーム業界にはサクセスストーリーがある。その経緯を身近で見てきた。 面識のある人が有名になったり、ビジネス上成功したりと様々なケースがあった。 例えば、2020年3月PlayStation 5の解説に登場したマーク・サーニー氏。 その前のPlayStation 4のプレゼンテーションも彼が担当していた。肩書は、リードアーキテクトというゲーム機設計の責任者だった。 1980年代後半、セガがマークⅢを発売していたころ。大鳥居に社屋があったセガで、彼はマークⅢ版『上海』の開

          『上海』と『クラッシュ・バンディクー』とPlayStation 5

          新声社とeスポーツ

          新潮社の前身は新声(新聲)社である。 それを意識して社名を付けたのか、と新声社の社長に尋ねたことがある。当時短期間だが同社のアドバイザーのようなことをしていた。そのときのことだ。社長は、「新潮社のことは知らなかった」と言っていた。 新声社は、アーケードゲーム専門誌『ゲーメスト』などを出版していた。ゲームファンには思い出深い雑誌だ。同社で社長を交えてミーティングをした際、編集責任者のS氏を紹介された。 それからしばらく後のこと、彼から連絡があった。会社が倒産し、編集者たちと

          新声社とeスポーツ

          制作に至らなかった『グレンダイザー』のゲームと南部虎弾さん

          2010年アニメの専門家といっしょにカイロとドバイに行った。ゲーム&アニメ産業の調査である。 複数のゲーム会社やゲーム販売店を訪問したが、まだゲームは産業になっていない状況だった。カイロの大きなショッピングモールには、コピーゲームを大量に堂々と販売するショップがあった。韓国のオンラインゲームをエジプトでリリースした会社の社長は、ゲームファンが増えていると言っていた。 取材した人たちの伝手でイラクの青年と知り合った。父親が日本から中古の工事用重機を輸入してイラクで販売してい

          制作に至らなかった『グレンダイザー』のゲームと南部虎弾さん

          なぜ東アジアに和風キャラのゲームが多いのか

          2001~2003年ごろ韓国でオンラインゲームビジネスについて調査をしていた。韓国では、リリース済みのタイトル、開発中のタイトルに日本のアニメやゲームのような和風キャラクターが多く見られた。どういう経緯でそうなったのか。調査していてその点が気になった。 同じ時期に台湾のオンラインゲームビジネスも調査していた。韓国、台湾ともにゲーム会社の社長やプロデューサー、ディレクターの中にはファミコンゲームが好きな人が少なからずいて、RPGで日本語を覚えたという人が何人もいた。 韓国や

          なぜ東アジアに和風キャラのゲームが多いのか

          『スーパーマリオブラザーズ』から『どうぶつの森』まで攻略本の歴史

          『ファミ通攻略wiki』7月終了という情報がネットニュースに掲載されていた。5月10日のこと。ゲームの攻略は、かつては書籍だったが、今は書籍もあるがネットの攻略記事が多い。 ゲームの攻略本は、ゲーム攻略に関わる情報を掲載した商業出版物だ。とくにインターネットが普及していない時代は、ゲームユーザーにとても重宝された。 攻略本が生まれた経緯はよくわからないが、1980年代中ごろ田尻さんがアーケードゲーム『ゼビウス』の攻略を掲載したzine(ミニコミ=同人誌のようなもの)を作

          『スーパーマリオブラザーズ』から『どうぶつの森』まで攻略本の歴史

          ゲームが無料になって20年

          PCオンラインゲームはアメリカで生まれた。それが韓国で人気となり、2000年ごろ続々とオンラインゲームを開発する会社や運営サービスする会社が生まれた。 ソウルは日本のファミコンブームのときのような感じで、ゲームを作りたい人、ゲームでビジネスをしたい人の熱気がすごかった。そのころKOCCA(韓国コンテンツ振興院)のセミナーで1時間ほど話をしたが、300人ぐらいの参加者があり、質疑応答は講演時間より長く1時間以上あった。 ソウルとプサンには何度か調査で訪れた。学生ベンチャーや仲間

          ゲームが無料になって20年

          ゲームはすでに生活に溶け込んでいる

          1972年アタリが発売した『PONG(ポン)』がアメリカで流行り、1973年タイトーが『エレポン』、セガが『ポントロン』を発売したことは以前書いた。 1976年アタリは『ブレイクアウト』を発売。このゲームもアメリカでヒットし、ライセンスを受けたタイトーが『ブロックくずし』というタイトルにして国内で発売したところビジネスマンを中心に人気となった。当時喫茶店や飲食店には『ブロックくずし』の筐体が置いてあり、ずいぶんお金を使った覚えがある。ちょっとしたブームだった。このゲームが

          ゲームはすでに生活に溶け込んでいる

          韓国のコンテンツビジネス戦略

          インターネットが一般に普及するのは低価格のブロードバンド回線が一般化した2000年初頭頃。それまでインターネット回線は電話回線を利用していた。現在とは比べものにならないくらい劣悪な環境だった。 そのころ韓国は、日本より早くブロードバンド通信環境が整備されていた。その恩恵を受けたのがゲーム業界で、北米のPCオンラインゲームが人気になり、やがて自社タイトルを開発・リリースする会社が現れた。2002年頃ブロードバンド時代のビジネス調査を依頼され、何度かソウルを訪れた。当時韓国は

          韓国のコンテンツビジネス戦略

          ゲーム機バブルの時代

          前回ゲーム会社の成り立ちを考えてみた。今回はその後の話である。 1990年ゲーム会社各社が参入したのはスーパーファミコン市場だった。ファミコンの後継機スーパーファミコンには、サードパーティー(ファーストパーティーはゲーム機メーカー、セカンドパーティーはゲーム機メーカーのゲームを開発する会社)と呼ばれるゲーム会社のほとんどが参入している。 1993年ソニーとソニー・ミュージックエンタテインメントの共同出資でソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)が設立された。電機メ

          ゲーム機バブルの時代