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ウソつき大会、後

ウソつき大会の後、嘘とフィクションについて話し合った。
人はなぜ嘘と分かっていながら
フィクションに一喜一憂できるのか。
敢えて騙される、というプログラムが脳の中にあるのか。

ある一人の答え。
フィクションの目的は、疑似体験と現実逃避だから。
その目的のために、瞬時に疑似体験モードに入り、
誰かの主観に溶け込み、感情移入する。
また、人はフィクションを「作り話だ」と知ってはいるが、
ドラマや映画を「嘘」と思いながら見ることはない。
「これは死んでいるものだ」と思いながら 肉や魚を食べたりしないのと同じことだ。

別の一人の答え。
フィクションは例え話なのではないか。
普遍的な、本質的な(あるいは平凡な)主題がある。
生死とか、愛と孤独とか。
それらは、例えることによって相手に伝わるのだと。
「私は孤独だ!」とだけ叫んでも、
あまり伝わらない。ヒトの心には届かない。

教授の何気ない言葉。
嘘というのはどこからが嘘なのか。
大げさは嘘か、脚色は嘘か。
方便は嘘か、建前を言うのは嘘か。
真理は作られるものである。
建前を言われると人はなかなか反論できない。
建前で物事を解決するのは人間だけ。

この教授は、教授にしては珍しく、このような抽象論であっても、
分からないことを「分からない」と はっきり言う。
この謙虚さを持つことが教授なりの美意識であり、
私も、正しく誠実な態度であると思う。

教授は言う。
個性とは、「景色の見え方」である。

私と、これを読んでいる あなたとでは、
景色の見え方が確実にどこか違う。
それは私とあなたが、それぞれ異なる個性を持っている、ということに他ならない。

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