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人と他人のと間


*11/8


僕は今まで、繋がりに相当助けられて生きてきた。
他人の温もりに助けられて生きてきた。

最近思うことがある。

日本は孤立していっている気がする。
幸せの価値観はそれぞれやけど、これによって生きづらさや、苦しむ人、損する人がたくさんいると思う。

僕も孤独になったり、閉じこもると、
傲慢なことや、偏った考え方、怯えること、よからぬこと、グルグルと自分をいじめたり、強迫観念が起きだす。ざわつく。
その時に深まったりもするが、基本苦しい。

やっぱり、人は話せる存在、分かち合える人がいるいないの豊かなつながりで幸福度が違うと思う。

身近な人、距離が離れていても、大事にしたい。


身近な人が苦しんでるなら、なんか嫌。
押し付けるのは嫌やし、無理に干渉すること、分かり合うまでいかなくとも、
歩み寄って、正解がない解決に向けて話し合ったり、共創していきたいと思う。
そうじゃないと分断を生むと思う。

繋がりってなんなんやろう。

名目状のつながりや人脈も、特に仕事で信頼を得るために必要だし、競争社会な以上、そのために頑張る必要もあるだろうし、物事は全部バランス。

でも、やっぱり、等身大で話せる関係や、ありのままの自分を受け入れてくれる存在がめっちゃ大切と今年、物凄く感じた。


僕は幸い、僕そのままを受け入れてくれる場所や人にたくさん巡り合ってきた。
あげると沢山あるけど、例えば
今の仕事先は家族経営の飲食店。出会ってもう6年。勤めた期間も長く、もちろん経験があり、仕事の自信もある。それもやけど、粘り強く頑張ってきた僕自身を評価してくれたり、僕の人柄を気に入ってくれていると感じている。

僕は、お世話になった加賀の人たちに聞く力がある、人に好かれるとありがたいことに言われる。

だからこそ、人をその人自身でみたいし、駒として見たくないと思うようになった。その節があったからだ。

「楽しい。」「嬉しい」僕はこの感情、状態が大好きである。
自分もそう在りたいし、他者もそうあって欲しい。
でも、厳しさも時には必要で、甘々ではいけないけど、
大義のためや仕事のため何かのために犠牲にして、誰かの気持ちを聞けずに苦しみが大きくなるのなら、心地よくないなら、
たとえ魅力的なゴールに突き進んでたり、社会のためにやっていても、
身近な人を何のために頑張ってるのか分からなくしてしまったり、ただ苦しめてしまうのなら、なんのためにしているかわからない。と僕は思う。

自分が超脆いし、弱いところだらけだから、だからこそ人の弱さを認めれる、傾聴できる人でありたい。
すべては補完だと思うから。理想かもしれないけど、その人それぞれの輝き方があると思うし、その人それぞれの目的があっていいと思う。自分もずっとそれを探してる。

人を「何者」だけでみたくない。
等身大の自分を受け入れてくれる人を大事にしたいし、
等身大の自分を好きになってもらえるように頑張りたい。
そのために等身大でいたいし、周りの人に等身大でいてほしい。

我慢も、頑張るのも、

「楽しい」がなかったら、意味なくない?


働くにしろあそぶにしろ何するにしろ、人間は人と他人との間で生きている。
だから、一緒にいる人がめちゃくちゃ大切。だと最近感じてる。

僕は、いろんな立場に立って想像することを、すぐ怠っちゃう。結構労力を使うと思うから。

でも、多様性を認める自分で在るためには、それぞれの立場の考え方を受け入れることと、想像力が欠かせない。
この右倣えと固定観念の風習から逃れるためには、素直さになることが欠かせない。

磨いていきたい。

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