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想像力

こんにちわんちゃん。今日は最近ほっとなニュースでいろんな意見が飛び交う自民党のLGBTQについての意思決定に、想うことがあったので書こうかなって思いました。

僕は当事者じゃないし、知識も不十分なんで、ちゃんとわかってないかもしれないけど、ご了承ください。

メディアは事実や本質とそぐわないことを取り上げることもあるし、この人の話を聞いてないから真相はわからいけど、事実は、多様性を認めないんですよね.....

もちろん、気持ち悪い!って思うことも、スポーツの例で競技的にとか、例えば温泉で実は男の気持ちなのに私は女なのですって言っておかしなことをする人は出てくるのも、あるだろうし、

それも多様性を認めることだから、判断はすごく難しいことだし確かにそうかもだけど、

でもやっぱり、この「道徳的にLGBTは認められない」とか、「種の保存」を優先とかそれはほんまにとちゃうなって思う。言葉がね。

大事なのはその決定事項じゃなくて、発信。


そもそも存在してるのに、この言葉は議論がズレてるし、誰も救わない。


僕は、いまベトナムで日本人の子どもに関わる仕事をしていて、

僕は子どもとじゃれあうことや冗談を言い合うことが好きだし、子どもの発想や感じ方、気づきのために、発言や行動を縛りたくないと思ってます。
子どもって、シンプルに生きてたり、ハッとさせられることもあったり、自然であるからです。僕が取り戻したい感覚を持ってたりするからです。

でも、これは真剣に、僕が生きてきた中で伝えないとなって思ったことがあります。

(最初に言っておくと、子どもたちの考え方、感覚や発言を否定したいというわけではない。むしろ、子どもは自然に思ってることで、不自然が自然になってる社会に疑問。)


それは送迎バスの中でよくこの話題が出てきます。

"だれだれは、男がすきなんだぜ~haha"
"コーチ、ピンクのマスクだ。女の子やん~haha、学校のだれだれも女の子の色よく着てるよ~"


僕:「そうやでぃん〜。アッァハ〜んん。別にいいやん。なんであかんの?」

スクール生「hahaha!!だってさー、おかしいもん。」

僕:「そうなのかな?一回ほんまそうなのかなって考えてみて聞いて。コーチもな、そう思ってた。男なのに女の格好したり、男に対して好きって思うのおかしいし、気持悪いって。でも、東南アジアに来た時、オネエでもめちゃくちゃきれいな人がいたり、そういうお店も行ったこともあるけど、めっちゃ楽しかってん。ローカルの人、普通にオネエな人歩いてるくない?その時、こう思ったんよ。あ、性別って何なんやろうって。」

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↑↑大学2年生になる春休み、セブ島に行ったとき。来た初日の夜に散歩してたら、観光客と見て物品を狙ったのか、一回女性の格好をした大男に追いかけられて怖かったあの時。次の日の夜、お店の前まで行ったが断念した思い出。笑
このセブ旅行から、ものすごく海外って日本と違うくて、目、鼻、耳に入る全てのことが刺激的で面白いなって思った。


その時はそんなに思い直すことはなかったんだけど、だんだん知っていくうちに、こう思った。性別ってなんで分けられているんだろう。もし、グレーな人がいれば、

今まで思っていた気持ち悪いっていう気持ちは、言葉に出すと、誰かが傷つく。


僕:「コーチは男の子の気持ちやし、そう言われても冗談で流せるけど、~がさ、もし、女の子の気持ちだったら、お前おかしいよ、とか馬鹿にされたり冗談で笑われたり、気持ち悪いって言われたとき、どう思う?」

スクール生:「えーいやだ。」

僕:「そうやんな。その子にとっては、あれ、自分って駄目なのかなってなるよね。発言するときは、相手の気持ちを考えよう。
コーチもなー、子どもの頃やいままでたくさん失敗してきたし、今も足りてへんから」

僕:「これからはね、段々世の中も、日本でもいろんな性別があっていいになってくねん。だからね、気にすることはなくなるし、もし~の気持ちが変わっても、口にしていいし、自由になってくはず。逆に、いろんな人がいて良いって思ってほしい。」

いつも話を伝えるのが苦手な僕だけど、この時は真剣に聞いてくれた。



前にいた加賀でも、学童に関わる中で女の子の格好をしたい子がいた。別にいいよね。

そもそも、男だってモノや服見たり、アイドル見て性的だけじゃなくて「かわいい!美しい!」って思うことがあるんだから、それが強くなることなんて、あるよね。


三年前くらいまで、僕はずっと上記のように思っていたし、人として倫理や感情の使い方を間違えてることは大いにあった。


想像力。生物の間で生きるのであれば、いちばん大切だと思ってるし、一番自分が足りてないなって思うところ。

損得感情が多く出てくる僕。

気を遣いがちな僕は、気を使うのではなく、想像して気を配るをできる人間になりたい。

相手がなんて思うだろう、喜んでくれることしよう、発言の前にワンクッション考えること。

本質を考えて想像すること。

”気づいて”、想うこと。

たとえ、自分が違う気持ちでも、「あ、そう思う人もいるよね」って思って、発言も一つ一つ考えたいですね。


心を豊かにする努力はしていたいなって思う日々です。

何歳になっても子どものように、学びを受け入れる態勢を持ってたい。

1人、「俺英語勉強したいねん!」って子がいて、なんで?って聞くと、

スクール生: 「ベトナム人と話したいから!」

僕: 「うぉー!いいね!!」「勉強のためじゃないんやね!」

スクール生: 「ベトナム語は難しいけど、英語ならいける気がするし、何より、心通じ合いたいねん!」

めちゃくちゃこの子の将来楽しみになった。子どもならではで心が豊かでいいなー!!!って思ってその日はめちゃくちゃ嬉しく家に帰った。


僕は、この気持ちに沿って指導してたから、この記事を見て、日本社会では、道徳的には、通用しないのか?異なる人と、心を通じあえないのか?だめなのか...って思ってしまった。世の中は混沌としていて、難しい。

グラデーションだらけな世の中で、グレーで在りたい。

自分から見た優劣なんて、誰でもある。好き嫌いだってある。その気持ちに素直になっていいけど、
でもそれを否定して他者に伝えるのは、おかしい。
それぞれのライフスタイルや性格もあり、
みんなハンディキャップなんてある。逆に可能性だってある。
そもそも存在してるんだから、みんなを"認めたら"、ハッピー。そういう前提の社会がいいな。

なんて思ったオフの日。


Cam on.



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